城メグリスト

萩原さちこのプロフィール

城郭ライター、編集者。小学2年生で城に魅せられる。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演などもしています。

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考古学から学ぶ史跡の見方・史跡ウォーク「長宗我部元親の居城」

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高知県立埋蔵文化財センター主催、
考古学から学ぶ史跡の見方・史跡ウォーク「長宗我部元親の居城」。
岡豊城・大高坂城(高知城)・浦戸城をめぐる8時間のバスツアーでした。

長宗我部元親の居城である岡豊城、
豊臣政権下での築城となった大高坂城、
完全なる織豊系城郭として築かれた浦戸城。
時期は異なりながら、織田・豊臣政権にそれぞれ関わる個性的な3城。
私からは、築城と改変の背景と意義、
織豊系城郭の導入と移行といったあたりで思うことを、
全国の類似する城の事例も交えつつ、お話させていただきましたぜよ。

 

大高坂城から浦戸城への移行は、一般的には水害対策ができなかった、とされていますが、
実際には豊臣政権下での強制的な移動だったのではないかと思います。
昨年の米子城フォーラムのときに中井均先生とのトークショーでお話したように、
たとえば小早川隆景が新高山城から三原城へと移行した事例、
吉川広家が月山富田城から米子城へと移行した事例と同様に、
文禄・慶長の役に備えての軍港としての築城だったのではないかと。

水害対策ができなかったことが理由であれば、
その後に入った山内一豊が同じ場所に高知城を築くのもおかしな話ですし。
高知城に戻った理由は…いかんせん、浦戸城は城下町形成には不向きだったのではないでしょうか。
実際、大高坂城から浦戸城への移転時はなかなか家臣団が移住せず大変だったようです。

浦戸城で興味深いのは、天守台。
倭城を訪れたとき、海外出兵先の前線基地であるにもかかわらず
当然のように天守台があることに驚いたのを思い出しました。

案内するにあたり報告書を読んだり、
今回しっかりとその塁線を確認できたことで、私としても新発見が多くありました。
浦戸城は国民宿舎や竜馬記念館が建っていて
もはや城らしきものは何もないザンネンな城、と思われていますが、
ぜんぜんそんなことないですよ。
もう少し整備していただけるといいのになあ…。

実質的な秀吉の命による築城、ということであれば
織豊期の城を考える上でかなり重要になってくるのでしょうし、
長宗我部の城を考えていく上でも重要な城なわけで、
しかも調査結果も遺構もある。もったいないなあ、と思いました。

 

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最近は地元の方々もがんばっていらっしゃるとのことで。
地元の方が作成したという散策MAPがとても秀逸でした。
(岡豊城のMAPといい…高知の方はエディトリアル能力が高い気がします)
とてもわかりやすく、しかしそれなりに詳しい人にも役立って、さじ加減もちょうどよくて。
城ファンとして、まず感謝。
こういう努力が少しずつ身を結び、地域の理解、文化財の保護につながっていくといいなと思います。

 

構造的には、改めて岡豊城はおもしろいなと思いました。
織田信長の影響が部分的に感じられ、改変が明らか。
近年の先駆的なレーザー測量などで全貌が明らかにもなっていますし、
じっくり見ていくとかなりおもしろい城だなあと改めて感激しました。
長宗我部氏の歴史を知るにも、この城の理解は避けて通れません。
岡豊城はもともと人気ですし、続日本100名城にもなりこれから来城者も増えるはず。
このあたりのおもしろさをたくさんの人に伝えていければと思います。

 

高知の城は畝状竪堀が多くあり、
関東は横堀文化なのだなあと改めて思いました。
岡豊城もさほど標高が高い訳ではなく、
関東平野の丘陵を利用した城と築城のセオリーは同じでもおかしくないわけですが、
まったく発想が違うのだなと感じました。

ただ、やはり毛利系の城とは畝状竪堀の使い方が違いますね。
岐阜の篠脇城なんかとも、違うなと思いました。
畝状竪堀は昨年の中世城郭研究会のセミナーでもテーマになっていましたが、
完全なる地域性なのか、はたまた共通性があるのかなかなか難しいです。。

畝状竪堀の導入、土佐の城については、
翌日いろいろ考えることになるわけですが…。

 

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知見が広がり、私自身もとても勉強になりました。
なにより、みなさんとお話しながら城を歩けてとても楽しかったです。
ご参加のみなさま、高知県立埋蔵文化財センター所長の松田さん、
センターのみなさま、貴重な機会をありがとうございました。