城メグリスト

萩原さちこのプロフィール

城郭ライター、編集者。小学2年生で城に魅せられる。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演などもしています。

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顔晴れ、岩手!〜TTV大槌町〜

6月18〜19日の土日、TTV(チーム炊きボラ)で、岩手県大槌町へ行ってきました。
大型バスで片道9時間。今まででいちばんの長旅になりました。1泊2日+車中1泊行程です。

今回は、私にとって今までとはちょっと違うボランティアでした。
なぜなら、大槌町吉里吉里というところに、友人の親戚一家がいるから。
同じ年の英志くんは学生時代に東京で会い、今は地元に帰り、大槌町役場の職員として働いています。
吉里吉里には、一昨年遊びに行ったばかり。
知り尽くした場所、というわけではないけれど、
やはり知っている場所の変貌を目の当たりにするのは、辛いものがありました。
もう1週間も経つのに、まだ頭の中がぐるぐるしていてまとまりがないですが、つらつらと書きます。

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震災直後、大槌町の報道が少なかったのは、
花巻から車で2時間半と、距離的なものに加え、
被害があまりに大きすぎて、報道カメラが入っていけなかったからだと聞きました。
街の心臓となる大槌町役場も壊滅、町長をはじめ1/4の職員の方が亡くなり、
三日三晩の火災で、この街の中心部は燃え尽きてしまいました。

 


「おかげさまで、瓦礫はだいぶ片付いたよ。焼け野原みたいだけど」
と、英志くんからメールをもらっていたけれど、
本当に、写真や映像で見た、東京大空襲後の焼け野原みたいだった。
かつての報道で見た状態に比べたら、劇的に片付いていたけれど。。

 

戦後の写真と違うのは、ものすごい腐敗臭が充満していること。
数え切れないほどのカラスが飛び交って、この地を占拠している。
ここにはおそらくまだ、腐敗臭の原因が残っているのだと思う。
都会のカラスは、人間か生ゴミの入ったゴミ袋に狙いを定めているけれど、
ここのカラスは狙いを定めていない気がしました。
襲ってくる気配もなくて、なんだか余裕さえあるような。

 

こんなところでも、水はキレイなんだな。

 



この場所は、ご遺体を踏まずには歩けないほどだったのだと、あとで英志くんが教えてくれました。

 

一昨年、グルメな友人が「日本一おいしいお寿司屋さんだよ」と連れてきてくれた、大槌町の<鮨辰>さん。
大槌町の中心地は栄えていて、ちっちゃな商店がいっぱいあったなあ。
すべての建物がコンパクトでなんかかわいくて、今度来たらちょっと散策してみたいな、と思った場所でした。
それで、「英志くんの務めている町役場はここだよ」と教えてもらったっけ。
もう町役場がどっちの方向だったかもわからない。
鮨辰は、どこに行っちゃったんでしょう。

 




生活の破片が、余りもので適当につくったごった煮の具みたいになっていて、
家族のアルバムや子供の描いた絵など、とても写真に写せないようなものも、埋まり転がっていました。
まだまだ大切なものがたくさんあるけれど、それに手をつけることすら、今はまだ後まわしなのでしょう。
赤い旗は、亡くなった方のいる印。

 

「火葬が間に合わず、土葬することになりそう」と、3月の英志くんからのメールにありました。
まだまだ行方不明の方がたくさんいるけれど、身元の確認も少しずつ進んでいるそう。
「身元の確認といっても、片腕とか片足とかね。ポケットの携帯電話から身元がわかった人もいるんだ」。
…大切な人を、片腕で確認するなんて。

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吉里吉里地区へ移動。ガソリンスタンドは力強く営業中。
仮設スーパーマイヤ、品数は豊富。だけど、レジにいちばん近い棚を埋め尽くしているのは、お線香でした。

 

吉里吉里から車で2~3分の波板海岸で、奇跡的に営業している民宿に泊まれることに。
民宿に着いておばさんに電話してみたら、自宅にいるとのこと。
ようやく戻れるようになり、修理が完成間近なのよ、と。まだ明るかったので、
東京から持ってきたアルバムと手紙とお土産と、炊き出しで余ったおかずを持てるだけ持って、
歩いて吉里吉里のおうちへ行くことにしました。

 

走って民宿を飛び出したのはいいけれど、すぐさま目の前の景色に圧倒されてしょんぼり。
ひとりでとぼとぼ歩いていたら、悲しくなってきて足が止まって涙が出てしまいました。
そういえば、被災地をたったひとりで歩くのは初めて。ここで5分くらい、ぼんやり。

 


一昨年、友人とこの海岸線を早朝ランニングして、
「今まで見た中で、いちばん穏やかできれいな海だよ!」興奮気味に話したのを思い出しました。
「波板観光ホテルはこのあたりの絶景ポイントでもあるんだよ」と案内してくれて、
ランニングウェアのままホテルに侵入して、中庭から海岸の絶景を一緒に見たんだった。
あんなに賑わっていた波板観光ホテルは廃墟と化していて、もうこれ以上は近づけない。
ホテルの社長さんも、亡くなってしまったそう。いつまで、このまま放置されるんだろう。

歩道がなくなってしまって、「ああ、もうおばさんには会えないのかな」と
絶望的な気持ちになってしまいました。
今思うと意味不明な発想だけど、なぜかそのときはそう思ったのです。
湿度200%くらいありそうな、湿っけみたいな重い空気がまとわりついて、息苦しかった。
地元の高校生らしき男の子に挨拶されて、気を取り直す。

 

おばさんの家は、海の目の前。
「吉里吉里小学校の青い看板の横を入ったところだったな」と思い出しました。
目印の青い看板が見えたとき、家がなくて背筋が凍った。
でもさっきおばさんが「おうちで待ってるね」と言ったし、通話履歴も残ってる。
気を取り直して近づいたら、ちゃんとお家があって、玄関先におばさんがいて、うれしかった。

 




津波の進路、家屋の耐久性、逃げる方向。小さなことの積み重ねが、命運を分けたようです。
お隣の家は柱ひとつ残っていないし、いまだに行方不明だそうです。

あの日、おじさんとおばさんは一緒にいて、居間でご近所の方と、お茶をしていたそう。
地震が発生後、窓の外の海が渦潮のようにぐるぐる回り出したため、
外へ出て、海岸沿いで津波を見ていたら、
みるみる遠くの家屋を破壊して迫ってきたため、大慌てで逃げたそうです。
その間、約20分。

右の道から逃げたおじさん達は無事避難し、
左の道から逃げた近所の方は、波に飲まれてしまったそうです。
緊急避難場所である吉里吉里小学校へ向かう途中に、津波に飲み込まれた方もたくさんいたのだとか。

英志くん曰く、小さい津波はよくあることで、津波そのものは、ここではさほど事件ではない。
たしかに、以前は頑丈そうな堤防があったし、こんなに海がむき出しじゃなかった。
だから、津波=とにかく逃げろ!みたいな方程式は地元民にはなくて、
おじさん宅のように海のそばにいて、実際に海を見てただ事ではないと気づけた人が、間一髪逃げられたそうです。
こればTVでも再三放送されていることですが、
想定外の規模に気づけなかった距離にいた方が、亡くなっています。

素敵だったエントランスのガラスも割れ落ち、壁の上部には浸水の跡(赤い矢印のところ)。
パッと見はあまり変わっていないような室内だったけれど、
ひとつひとつ説明してもらってじっくり見たら、柱は傷だらけだし、継ぎ接ぎだらけ。
3ヶ月かけて必死で修繕した跡が至るところに残っていました。

「ゼロになったら新しいものにしようとするんだろうけど、元に戻せるものは戻したくなるんだ」と
英志くんが言っていました。
どうしても、同じものがほしくなるのだそうだ。なかったことにしたい、という思いがはたらくらしい。

「仏壇が流されちゃったの」とおばさんが指したスペースは、ぽっかり空いてしまっていた。
私の実家には24歳になるまで仏壇というものがなく、なんというか仏壇があんまり生活に密接していないので
その存在がいまいちピンとこないのだけれど、
仏壇を失うというのは、心の家族を失うということなんですね。
戸籍謄本に載っている数が増減するとかそういうことではなくて、
モノにも命があるし、この世のすべてに想いがあるんだなあ、と改めて思いました。
パッと見は変わらないように見える部屋だけど、おばさんにとってはすっからかんなのもしれません。

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「なーんにもなくなって、びっくりしたでしょ?」というのがおばさんの第一声だったけど、
「うん、ホントに何もないね」とも言えないし、「そんなことないよ」とも言えなかった。
こんなときは、なんて言ったらいいのでしょうね?
言葉を扱うことを生業としていながら、肝心なときにまったく何の役に立たないのが悔しい。

もっと気の効いたことが言えた気がするし、
私なんぞでも、聞いてあげられることがあったのかもしれない。
辛いこととか、話したかったのかなあ、
それとももっとおかしな話をして、思いっきり笑いたかったのかなあ、後になって悶々。
適当な相づちを打つだけで終わってしまった。

だけど、情けない話だけれど、私自身が、震災の話をできなかった。
そのときは、なにも考えないでヘラヘラしていないとダメだった。
こういう腫れものに触れない接し方もよくないのだと、これまでのボランティアで感じたばかりなのに。
ああ、私は何をしに行ったのか・・・。

「1階が流されちゃって靴がなくて、長靴をもらったんだけど、爪先が痛くてね。
靴のサイズが合わないからだと思ってたら、ガラスがずっと刺さってたの~」と、
見せてくれたおばさんの足の親指は、ざっくり割れていて、今も皮がべろべろだった。
ガラスが刺さったまま放置してもおかしいと思わないなんて、
それだけ、そんな痛みなど気にしている場合ではなかったということなんだろう。
「痛かったでしょう?」「まだ絆創膏貼っておいた方がいいんじゃない?」とか
私はまた、しょうもないことしか言えなかった。

「船は流されちゃったよ」と、漁師であるおじさんはちょっと淋しそうだった。
つつましやかに積み上げてきたものを失うことがどれほどのことか、
私のような若造にはわかるわけないんだろうな、と思って何も言えなかった。
おじさんは、また海に出たいのかな。海をどう思っているのかな。それでもやっぱり、好きなのかな。
自然と共存している人と私とは、どんな感覚の違いがあるんだろう。
いろいろ聞きたかったけど、やっぱり聞けなかった。

栄志くんはいろんなことを終始笑顔で話してくれたけど、
たくさんの上司や同僚を目の前で亡くして、
生まれ育った故郷が破滅されていくのを見て、どんな気持ちだったんだろう。
目の前にやることがたくさんありすぎて、悲しんでいる暇もないのかな、とか
私がこんなにいろいろ考えたりするのは余裕があるからであって、
英志くんには物思いにふけったり不安になったりするゆとりもないのかな、とか
話しながらぼんやり考えていたんだけど、
実際のところどんな風に思っているのかなんて、とてもじゃないけど聞けなかった。

ただ、取り戻せるものは全力で取り戻してやろう、目の前に壁があるなら超えてやろう、みたいな
確固たる気迫みたいなものがあって、もうとにかく、すごいな、と思った。
それはもうスポ根みたいに奮い立たせたうさんくさいものじゃなくて、
長い年月備わって、外からは見えないけれど揺るぎなく芯を支えているもの。
お城でいうなら、心柱だ。…といっても誰もわからんか。
心柱は、各層が外れるのを防ぐ通し柱のこと。
ときに柔軟に力を分散させて、ときに衝撃を集めて支える。
だから、たとえ多少の衝撃が襲おうとも、天守が崩れることはない。城の背骨みたいなもの。

町長はじめ役場職員の多くが亡くなり、行政機能失った役場はてんてこまい。
ネットがつながって、パソコンもやってきたけど、データが何もない。
支払い先がわからない、額がわからない、そもそも契約書がない。そんな状態だそう。
そして今、大槌町の年間の予算の3倍超が、瓦礫撤去や遺体埋葬だけに使われているそうです。

土日も休みなく早朝から働き続けて、翌日も5時起き。だけど、
「前は3時に起きて漁に出てから、それに比べれば全然~」と笑っていた。
そうだ、この人はおじさんの漁を手伝ってから役場に出勤するタフガイだった。
私が知っている中でぶっちぎりNO.1の前向き男。ミスターポジティブだ。
岩手のおいしいワインを民宿まで届けてくれたりして…岩手県民はおもてなし精神NO.1というのは本当だな。

壁とガラス窓のない家には、冷たい3月の風が吹き込んで、
翌日には容赦なく雪が降り、本当に本当に寒かったそう。
真っ暗闇の中、あちらこちらで故人を悼むろうそくが夜中灯って、
一晩中、すすり泣く声が絶えなかったのだそうです。
「キャンドルだと思えばいいと思ってね。そしたらキレイに見えっから~」と
おばさんは明るく笑い飛ばして話してくれたけれど、もう、そんな夜は耐えられそうにありません。

NHKの朝ドラ<おひさま>で
「戦時中、我慢はできるかできないかではなくて、するかしないかだったのよ」というセリフがあったけど、
それはこういうことなのかなあ、とふと思い出したり。。

自らも被災しながら、1週間避難所で炊き出しをしていたというおばさん。
「元気だけが取り柄です」というおばさん。
ホント、底抜けに明るくて、強いなあ。。。

行き場のない怒りや非難が、役場に向けられることもあるらしい。
災害後の対応からはじまって、さらには遡って事前の危機管理などまで。
本人は一切言わなかったけれど、おばさんが少し話してくれました。
九死に一生を得ても、決して手放しで喜べない現実があるのですよね。
自責の念に駆られている方も、たくさんいらっしゃるのでしょう。
震災のストレスもこれからがピーク。いろんな意味で、これからが正念場。

英志くんと、自立支援の話も少ししました。
荒治療が効果的な人もいれば、そうでない人もいるように、
サポートの形はさまざまで、問題も十人十色。
だけど何か指標がないと物事は進まないし、軸がないと議論も起きない。
こういう問題も、何年も先まで被災地では抱えていかなければならないんだな。
理想を掲げる部外者とは少しトーンが違う、現実的で淡々とした意見もあったり。。

おばさんはちょっと切なくなるようなことも漏らしていたけれど、
言葉の裏側に絶望ではなく希望を感じたし、
こんな苦境の中で、希望を持てるパワーを持てるなんて、なんて頼もしいのだろうと思いました。
話さなかっただけかもしれず、これはもう、私の勝手な解釈でしかないのだけれど。。

 

東京に帰ってからは気が抜けてしまったのか、きれいだった頃の海の写真ばかり眺めてしまいました。
「私、会わないほうがよかったのかな」とちょっと落ち込んだりもして。。
だけど、おばさんと英志くんからメールがきて、「ああ、行ってよかった」と心から思いました。
永久保存のうれしいメール。内容はヒミツです。

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吉里吉里の風景です。瓦礫の山は、吉里吉里の分だけ。

 

大槌町のローソン入口にあったボランティア情報ノート。私も書いてきました。

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炊きボラの活動についてもご報告。

今回の車は大型バス!ひまわり観光!ひまわり観光だけに、入口にはひまわりが飾られ、お出迎え。

 




こちら釜石市街。見覚えのある風景を抜けて、大槌町へ。

 



1日目は金沢小学校で炊き出ししました。240名様分くらい。
美しい大槌川を抜けたところにある、廃校。

 



支援物資のお届けなども。

6月18日は、震災からちょうど100日。14:46にはサイレンが鳴り、私たちも金沢小学校で黙祷を捧げました。
その時私はそこにいたわけではないのに、時間がぐるぐる巻き戻って、空気が冷たくなって怖かった。
この場所には、まだそういう気配が現在進行形で残っているんですね。

 


2日目は、かみよ稲穂館で炊き出し。こちらも240名様分くらい。

 

パーテーションもない倉庫のような場所で、
42世帯、87名がまるで保育園のお泊り会のように、狭いスペースで雑魚寝していました。
食堂もテーブルもないから、食事を置くのは床。
見ず知らずの家族同士の共同生活には、プライバシーもない。
仮設住宅に当選したのは4家族だけ、という現実。
入りたくても入れない。入ったら、自立という厳しい道のりが待っている。

調理室の冷蔵庫に貼ってあった食事メニューをパラパラと見たら、
昨日も、明日も、昼食はカップラーメンでした。
朝食は、おにぎりと味噌汁程度。
これでも、お湯を沸かせるようになっただけ、ましなのでしょうね。
こんな生活が、もう3ヶ月以上も続いている。
ここにいる人に「頑張れ」なんて言えないし、「一緒に頑張りましょう」なんて絶対に言えない。
もう、頑張らせたくない。
震災がひとまず落ち着いた、と思っている人がいたら、とんでもないです。

 



こちら、炊きボラの「ボラ」チーム。上原さん撮影。かっこいいぞ。
炎天下、さぞかし大変だったことでしょう。道のりは長いけれど、少しずつよくしていきましょうね。

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新聞に、どこかの現地ボランティアセンターの方のインタビューが載っていて、
「私たち被災者は、疎外された気持ちになる。見捨てられた気持ちになる。
だから直接関わらなくても、ボランティアの人の姿が目に入るように
少人数だとしても、できるだけいろんなところに配するようにしている」とありました。
私たちボランティアは「してあげる」のではなく、「させていただいている」という心持ちで伺おうと
TTVリーダーのkazさんはじめメンバーで話していますが、
もしそこに意味を残せるのなら、それはとてもうれしいことです。

大槌町の話ではないけれど、被災地で「やることがないのが辛い」という声を耳にします。
まだまだどん底の方もたくさんいらっしゃいますが、
一段落して普通に生活したくても、仕事がない、趣味ができない、希望もない。そういう足踏み状態の方もいます。
日課の散歩すらできなくて、体調もすぐれずストレスも溜まる。自立できず不安が増す。
衣類や食事を<もらう>のではなく、バザー形式で<自分で選び、自分でお金を出して買う>ことが喜ばれる。
炊き出しのごはんを<もらう>のではなく、道具と食材があるなら<自分でつくる>ことがしたい。
メークしたり、だらだらしたり、ときには時間に迫られたり。嫌なこともあるけど自分なりにリフレッシュしたり。
普通の生活とはこういうことなんだと、気づかされます。
復興のスタートラインにも立てない方のための<今日を生きる>サポートも必要ですが、
<歩き続ける>ための多角的なサポートも、これからは必要になってくると思います。

 

復興させていくのも、被災者。自立するのも、被災者。
私たちは、被災者になることはできず、被災者の気持ちをわかることはできません。
ただ、同じ方向を向くことはできます。

できることは人それぞれ。できることをできる範囲で続けていくことが、ベストな支援だと思います。
現地に行くことだけが支援ではありません。
私たちの活動も、食材、物資、支援金などのたくさんの後方支援に支えられています。

現地へ行くことに興味がある方は、ぜひ一緒に行きましょう。
なにができるかを明確にしていく必要はありません。そんなことをしても、無力さに気づかされるだけ。
必要なのは、「なんとかしたい」という気持ちだけです。
できることは、これから探せばいいのですから。

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岩手は、「がんばろう」ではなく、「ありがとう」のメッセージが圧倒的に多かった。
これだけの苦境の中でも感謝の気持ちを表せる、これぞ岩手人の心意気。

ちなみにタイトルの「顔晴れ、岩手!」は、
バスの中から見た、大きな看板に書かれていた言葉。小学校か、中学校のフェンスだったと思います。
「顔晴れ」には「ガンバレ」のルビ。なんだかいい言葉ですね。

 

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