城メグリスト

コンテンツ

  • プロフィール
  • お仕事実績
  • 活動予定
  • 日本全国城ある記
  • 城メグ日記
  • お問い合わせ
  • リンク集

大洲城(愛媛)

最新登城日:2010年10月6日

愛媛県大洲市にある、大洲城。

肱川(ひじがわ)に沿って広がる城下町、ほとりに静かにたたずむ天守閣。
木曽川沿いに佇む犬山城の景観も美しいですが、大洲城も負けず劣らずの美観を誇ります。
城主は次々に変わりますが、三大築城名手・藤堂高虎の手がけたことが有名。
大幅に改修し、城下町をつくり、この地を大いに繁栄させました。

大洲城の最大の特徴は、4層の天守閣であること。4は縁起が悪い数字なので、珍しいのです。
そして、完全木造で復元されていること。なぜ忠実に再現できたかについては、後ほど解説しますね。

外観は、各層の屋根に配された千鳥破風や唐破風の数の多さや、2階に連続している火頭窓が特長です。
1階部分の黒い壁は、下見板張りといいます。

内部の構造は、1階が吹き抜けになっているのが大きな特長。心柱も見どころです。

 

   

日本最古の現役開閉橋、長浜大橋から臨む、大洲城天守閣。
手前に見えるのは、二の丸の東側に位置する、重要文化財の芋綿櫓。石落としに格子窓が備えてあります。

 

  

長浜大橋の上に点在する、足元のタイルがかわいい。大洲城、肱川のうかい、古い街並み。

 

  

二の丸を通り、本丸へ向かいます。
現在の二の丸大手門跡。一般道路になっていますが、枡形は残っています。道幅、狭いですね。
左側には、現存する石垣。この上に渡櫓がありました。
二の丸御殿は、2つに分かれていて、下が政治を執り行う表御殿、上が城主の住居となる奥御殿でした。
建物は、現存する下台所。食料庫です。

 

  
   

本丸の立派な石垣と、その先に顔を出す天守閣。ここからの景観が、私はいちばん好きです。

 

   
  
   

本丸の石垣は、とっても立派!四国のお城が石が頑丈で美しいんです。
四国に現存天守が多いのは、地理的なこともありますが、その頑丈さも要因のひとつかもしれませんね。

 

  
  

御門番長屋を抜けて見下ろすと、内堀跡が残っています。
ここを降りると北の丸。いくつかの櫓が残っているようです。
さらに堤防に出て遠くから見上げる天守が、写真撮影のベストスポットとか。
・・・行ってみたかったのですが時間がなく、断念。
そのまま右へぐるりと大きく迂回して、少し急勾配になる坂道を登り、天守のサイドへ。

 

   
   

 

  
   

本丸で唯一の井戸、直径3.8mは国内最大級。
道の先にあるのが、天守へつながる最後の城門、暗り門の跡。
門の先に石垣が立ちはだかり、左へ折れるルートだったようです。
折れ曲がった部分に渡櫓が多いかぶさり、文字通り“暗がり”だったそうな。簡単には天守にたどりつけません。

 

  
   

左の2階建ての建物が、重要文化財の高欄櫓。
高欄、とは2階のベランダのような部分のこと。これが、大洲城で唯一の高欄です。
城内を見渡せる、ビューポイント。

真ん中の大きな建物が、天守。
2004年(平成16年)に復元されたばかりの、まだピカピカの新しい天守です。

右の二階建ての建物が、重要文化財の台所櫓。
大洲城の中でも最大級の櫓で、その名の通り台所らしき土間、煙を逃がす格子窓があります。

台所櫓→天守→高欄櫓の順に、内部を見ていきます。

 

   

台所櫓は1857年(安政4年)の大地震で大破。
1859年(安政6年)に再建され、1970(昭和45年)に解体修理されました。
完全なる現存ではありませんが、年季入ってますねー。

 

   

天守に入ると、一気に木の色が変わり、明るくてクラっとしました(笑)

 

  
  
   

冒頭に書いた<なぜ完全木造で忠実に再現できたか>には、2つの理由があります。
ひとつは、大洲藩作事方棟梁であった中野家から、江戸時代のものと見られる木組模型が見つかったこと。
もうひとつは、明治時代の古写真が残っていたこと。

いずれも貴重ですが、とくにこの模型が残っていたことは、希少価値が高いです。
なぜかというと、お城の設計図のやひな形は、通常残っていないからです。
よく時代劇なんかでも、大名屋敷の図面は厳重管理されていますよね。
お城は防衛施設ゆえ、その設計は超機密事項。
抜け道や攻撃などの情報が敵方に漏れたりなどしたら、大変です。
お城を設計した職人は、完成後口止めのために殺された、なんて話も…。
ですから、実際にどうなっていたか、何のためにつくられたのかなど謎だらけなものなのです。
(だからこそ、お城は現代でも解明されないことが多くミステリアスなのですけどね)

材木選びや活かし方、木組みに至るまで、
建築技術も進化しているであろう現代よりも、ずっと難しく複雑な部分があり、
忠実に再現するほうが難しいことも多々あるのだそうです。
アナログ作業だったことはもちろん、調査方法も限られ、情報収集も困難だったはずの時代…昔の人ってすごい。

1階部分の吹き抜けを見つつ、もうひとつの特長、心柱を確認。
2段目のいちばん右の写真。す〜っと、最上階まで1本の柱が通っています。

 

   

天守から望む、肱川の景観。なだらかな山の稜線、青い空、おだやかな波と風。気持ちいい!

 

  
 

屋根断面模型。これは興味深かったです。
屋根の本瓦葺きと、土壁漆喰仕上げを断面図で詳しく解説。
ひとえに漆喰といっても、藁の中に数種の竹を混ぜ込んだり、半年間寝かせた荒土を使用したり、
外壁には防水のためなたね油を混ぜたり、そしてそれを何層にも重ねたり・・・!
言葉だけだとイマイチ理解できないので、こういうのがあるとうれしいです。

 

   
  
   

連結した高欄櫓に入ると、再び年季の入った暗いムードに。
大洲城に現存する最古の建物、三の丸南隅櫓を見ることができます。
1965年(明和3年)に建てられ、1965年(昭和40年)に解体修理が行われています。
本当はここまで行きたかったのですが・・・タイムリミットで断念。
外堀の位置など、ここからふむふむと確認。

 

  

大洲城はグッズが充実してました。
お城タオル、復元事業パンフ、復元DVDを購入しました。
こちらで、大洲城のシールもいただいちゃいました。ありがとうございます!

 

  
   

それにしても、蛇行する肱川を利用してつくられた、藤堂高虎の縄張りは見事!のひと言。
縄張りがそのまま残っているので、舗装道路に姿を変えていても、
「ここの大通りまでが内堀かぁ」「あの細い路地は、城外への道!?」などと
いろいろ想像を張り巡らせながら歩けるので、ワクワクします。

 
  
   

肱川のうかいは、日本三大うかいのひとつなのだそうです。
長良川のうかいよりも、間近で見られるのが肱川のうかい。
しかも、夏には、花火&うかいをダブルで楽しめる日があるのだとか。
私にとっても花火&うかい&お城のトリプル。いつか見てみたいです。
山から見下ろす花火もオツとのこと。まさに、<打ち上げ花火、下から見るか横から見るか?>ですね。

 

  
  

うかいは見られませんでしたが、遊覧船で川下りしてきました。この遊覧船、手こぎなんです!
ぎーこぎーこと櫂が立てる音。ちゃぷちゃぷと小さく立つ波の音。
こういう風情の体感って、ものすごく記憶に残りますね。
遠くには、そびえ立つ大洲城天守。
角度は長浜大橋から見るのと同じだけれど、目線がぐっと下がるので、全然違って見えるんですよね。
遊覧船の名前は<あさもや>。大洲城下町の朝は、朝靄に覆われ神秘的なたたずまいを見せるのだそうです。

 

   
   

これだけ川が近いため、堤防は頑丈。水害から守ってくれる、お地蔵様。
坂本龍馬が高知からの脱藩途中に、この堤防から大洲に上陸し、このあたりの宿に立ち寄ったそうな。
このパタンと降ろすと椅子になる部分、なんという名前だったっけ…?

 

  
   

大洲は、とってもよいところ。
失礼ながら大洲という地名は、関東人にはあまり知られていないと思いますが、
おもてなしはほわんとあたたかくて、みなさん笑顔がおだやか。
小京都のような、手つかずの古い街並みがまた趣があって、
観光地なのだけれどヘンに近代化していない素朴さがまたよかったです。

<志ぐれ>という郷土菓子が美味でした。。
江戸時代中期から伝わる大洲藩の江戸屋敷内の秘法菓子だそうで、
<肱川の良質の水で小豆を炊き、砂糖蜜に漬け込み、うるち米合わせて蒸籠で蒸したもの>とのこと。
いろんな製造元さんからさまざまな味が出ていて、試食だけでお腹いっぱい(笑)

今回は観光もしたため、かなり駆け足登城。
大洲城の正面写真もないという有様だったので、再訪したいです。
うかい&花火に季節に。

********************************************
 
 
 
 
恒例のマンホールチェック。やっぱり“うかい”ですね。