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三内丸山遺跡(青県)

最新登城日:2010年5月15日

<日本全国城ある記>は、日本100名城を中心にご紹介しています。
日本100名城は、2005年に日本城郭協会が選定したもの。
100名城のアクセスやポイントをまとめた日本100名城ガイドブックはいまやお城めぐりファンのバイブルで、
100名城に設置されたスタンプラリーも、お城めぐりブームにひと役買っていると思います。

この100名城は日本を代表する城郭研究の先生方によって選定されています。
学術的な観点も踏まえてシビアに検討されておりれっきとした根拠がありますが、
私のような素人からすると、中には「なぜこのお城が?」と思うこともしばしば。
このあたりは選定時にも大変なご苦労があったと聞いています。

なぜこんな前置きをしたかというと、「三内丸山遺跡ってお城なの?」とギモンに思われる方がいると思ったからです。

日本100名城の中に、佐賀県の吉野ヶ里遺跡がリストインしています。
弥生時代の竪穴式住居であり、日本のお城のルーツと考えるなら、最古の城である、という位置付け。
ですが、先日お話を伺った某大学の教授が
「それなら三内丸山遺跡だと思うんですけどね」とボソッとおっしゃってらして。
そんないきさつがあり、ここあ青森県青森市の三内丸山遺跡に立ち寄ったのです。

 

  
八戸から⟨スーパー白鳥⟩に乗って青森へ。
この列車、そのまま乗っていたら青函トンネルを通って函館に行くんですね!
函館に行ってしまおうかとも思ったけれど、あまりに自由すぎるので断念。

 

  
青森駅を出ると、すぐそこに陸奥湾が!
「本島最北なの!?」とコーフンしましたが、違うんですね(恥)
バスに揺られて約20分、三内丸山遺跡〜縄文時遊館〜に到着です。

 

   
  
  
平成4年〜6年にかけて、野球場をつくるためにこの土地を整備したところ、
縄文時代前期〜中期(約5,500年〜約4,000年前)にかけての貴重な遺構群や遺物が発見され、
日本考古学史上例を見ない巨大な縄文時代集落であることが明らかになったとのこと。
約580棟の竪穴住居跡、10数棟の大型竪穴住居跡、100棟を超える堀立柱建物跡、廃棄された泥炭層、
約1,000年にも渡り土器や土が盛られ続けて小山になった盛土、約800基にもおよぶ子供の墓などが発見されました。

 

  
この巨大な掘立小屋が何のためのものだったかは、三内丸山遺跡の大きな謎のひとつなのだそうだ。
説明を読むと、建物説と非建物説とで見解も別れるそうで。
宗教行事的なものだとか、物見櫓的なものだとか、天文や季節を知るための施設だったとか、見解はさまざま。
物見櫓的な建物だったのなら、やはり城に通ずるところがあるかもしれないですね。

 

  
資料館では、ジオラマで全体図と人々の生活を確認。
こうして見てみると、各エリアの配置の仕方などに中世城郭との共通点があるようにも思えてきます。

 


どうにもこうにも気になってしまった、青森のゆるキャラ大集合のポスター(笑)。
こんなにいるのかあ、と感心。
⟨お米大使⟩なんかは3人のキャラも立っていて活躍しそうだけれど、
それに対して⟨ナガエモン⟩!完成度の低くないですか(笑)?
ちなみに私は(笑われるのですが)着ぐるみマスコットが苦手でして。
自分より大きなぬいぐるみ、しかも知らない人が中に入っていると思うと、怖くて近寄れません。
顔が丸見えの⟨ナガエモン⟩など、もってのほかです(笑)

 
三内丸山遺跡のマスコットキャラクター⟨さんまる⟩と、そのモデル(たぶん)。
だいぶかわいくしてもらえて、よかったね。

 

  
ちゃんとしたマスコットキャラクターもいる三内丸山遺跡、オリジナルグッズやおみやげも充実してました。
おみやげ(食べ物)のキーワードは“茶(土)”と“縄(縄文)”ですね。
お菓子はかりんとうが多かった。ねじったかりんとう。“縄”っぽい=“縄文”ってことだと思います。
おせんべいもちょっと濃いめの茶色。
ドラ焼き、味付けしたクルミも、茶色いだけでなんとなく“発掘”“縄文”を連想させられるから不思議。
縄文ビジネスはなかなか儲かるかもしれません。
だって写真の限定縄文チョコレートせんべい、どこでも売っていそうだもん(笑)
水道も遺跡風でした。

 

肝心の感想ですが・・・う=ん、正直なところ縄文遺跡はわからないです。
姫路城や松本城の天守閣(一般的にお城と聞いて連想する建物)を思い浮かべてしまうと、
まったくと言っていいほど共通点はありません。
では何が貴重かというと、
1500年間にわたる生活の跡がそこにあるということ、
吉野ヶ里遺跡と同様に、広い面積を一度に発掘したため発見された遺跡が広範囲であること、ではないでしょうか。
歴史はつながっているものなので、少なからず関連性はあるのでしょうけれど、今の私には難しかったです。