弘前城(青森県)
最新登城日:2010年5月16日
日本有数の桜の名所、弘前城公園。
全国に12基しかない現存天守のうちのひとつで、関東以北で唯一貴重な現存天守を持つお城です。
東北には天守閣、いわゆる“お城”の外観をした建物があまりないので、
現存天守のうちのひとつが弘前にあることは、なんだかちょっと驚きます。
東北の武将はあまり知られていませんが、もちろん勢力争いの合戦はたくさんありました。
天下獲りの思想があまりなかったのでしょうか、中央政権に関わっておらず
(伊達政宗があと20年早く生まれていたら天下を取ったかもしれない、という説は有名ですけれど)
どちらかというと、自分の領土を拡大して、自家の繁栄を望んでいたようです。
知っていくと東北にも有能な武将がたくさんいて、おもしろいですよ。
単純に遠いのと、豪雪で身動きがとりにくいもの理由なのかも。
合戦は短期決戦のものもあるけれど、基本的には長期戦で、長い場合は数年に渡ります。
雪の季節によそ者がたやすく攻め入ることはできず、一方で出する側も、春を待っての始動だったようです。
農作ひとつにとっても雪の影響は悩みの種で、飢饉も多発。
遠くの敵より、自然という近くの敵。
平定することで手一杯だったのかもしれません。
さて弘前城ですが、当時陸奥北部で絶大な勢力で支配していた南部家と戦い
津軽を統一した大浦(津軽)為信が構想、2代藩主津軽信枚が築城したお城。
かつては五層の天守閣、三重の堀、三つの櫓、五つの城門などを誇った広大な城郭でした。
「豪華な五層の天守閣のはずなのに、小さくない?」と疑問に思うはず。
弘前城天守は1611年に完成したものの、わずか16年後の1627年に落雷によって消失、
現在の天守は江戸時代末期の1810年に辰巳櫓を解体新造したものなのです。
江戸時代は自由に城を築くことができず、5層以上の天守閣の建築も禁じられます(徳川幕府による一国一城令)。
なので、移築という名目で幕府の許可を取り、この天守閣を建てました。
「・・・ん?じゃあ櫓なんじゃん」と思ってしまいますが・・・。
しかも、1810年築ですから、築200年。
「400年記念なのに!?」とちょっとがっかりしてしまうかもしれません。
だけれど、築200年であること=(江戸後期につくられた城郭であること)も、なかなか貴重なのです。
石落とし、矢挟間が設けられて、切妻破風が設置されているetc
ちょっと難しい話ですが、建築形式が時代とは裏腹にちょっと古いのです。
この形式を守ったのは、万が一に備えようという藩主の切なる願いの表れなのでしょうか。
「う=ん、やっぱり櫓なんじゃん」という声も聞こえてきそうですが、
ここは津軽藩の想いも汲んで、天守閣ということにしておきましょう。
さて前置きが長くなりましたが、城内へ入ります。
追手門から二の丸を抜けて、本丸を目指します。
現存の追手門、南内門。さすが、豪雪地域の門!
太い柱、しっかりとした屋根。雪って重いですもんね。
雪が極力積もらない屋根の角度になっているんだなあ、とじっくり見物。
ハートも見逃さないようにね☆
天守に向かって、内堀を渡す下乗橋(げじょうばし)。
天守への入口だったことから、必ず馬を降りなくてはならない橋。なので、この名称で呼ばれます。
私も少しだけ頭を垂れつつ、控えおろう的な気分で進みます。
下乗橋を渡るとある少し広くなった場所が、武者溜まり。
合戦のときは、ここに集結して、大将が号令を発します。
天守閣に向かって左手に〈鶴の松〉と、右手に〈亀の石〉。縁起モノですね。少し道幅も狭くなっています。
天守を前にした石垣をよーくみると、こんな穴が。どうやら密書を入れた場所のようです。
この位置で密書のやり取りとは、う=ん、ミステリアス。
この石垣のどこにあるのかはヒミツ。実際に訪れて探してみてください。
こちらが天守閣。外観のビジュアル的なポイントは、角度によって表情を変えるところでしょう。
写真右/下乗橋からみた天守。窓も多く、破風(三角の窓)も配されて質実剛健な印象。
写真左/内側(本丸)から天守。外側から見るより、かなりシンプルですね。
天守は立地によっては表裏でデザインが異なることがあり
(外側は威嚇&戦闘仕様、内側は美しさ重視だったり)
見る角度によって印象がだいぶ違うものですが、これほど印象が違うのも珍しいなと思いました。
内部は資料館になっています。
さすが江戸後期につくられたものだなあ、と思いました。
まず、天井が高い。
建物内の居心地が、おそらく現代の建築物にいる感じと似ているはずです。
挟間の幅も大きいし、格子の幅も広くてまっすぐ。
窓が大きいということは外側からも攻めやすいのいうことです。
やっぱり戦の時代につくられたものではないなあ、と実感。
現存なのかと思うくらい、だいぶ整備されている印象。
今はすっかり立派な公園になってしまっている本丸御殿。どんな間取りだったのかを想像できます。
左/天守の礎石。
右/井戸の跡。1カ所しかないようです。しかも小さい。
御金蔵跡、御日記跡の通って、本丸未申(ひつじさる)櫓跡へ。
ここが、本来天守があった場所。(・・・となると、ますます侵入経路はよくわかりませんなあ)
たくさんのボランティアの方がお掃除をされてました。
弘前城公園はゴミがひとつも落ちていないです。感謝。
蓮池、西壕方面、岩木山を背に。
写っていないですが、岩木山の左に広がるのが、世界遺産の白神山地。
戌亥櫓跡、御宝蔵跡を隅に配して、どーんと広がる本丸跡。
左の写真のあたりが大奥ですね。当時はドロドロだっただろうに、今は平和だなあ・・・と、平和な感想。
ここが有名な桜のトンネル!
もう終わっちゃいましたが、一面に咲いていたらキレイでしょうねー。ロマンティック!
恥ずかしながら、りんごの花を生まれて初めて見ました。
ピンクと白のグラデーションで、かわいいんですね。
ソメイヨシノは終わっていましたが、八重桜は満開でした。
かつては、この北門が表門とされていたそう。
侵入しにくいように枡形になってます。
ここをジョギングできるなんて、いいなあー!門のそばには、丑寅櫓。
弘前は、本当に桜を愛でている地。
まだ樹木医さんが少なかったころから呼び寄せて、大切に大切に育ててきたのだそうです。
城内には、こんな立派な〈緑の相談所〉もありました。
入口前の冷水機には、「冷たいお水どうぞ」の言葉が。
「弘前は自然にも人にもやさしいなあ」と再確認した光景でした。
桜の苗木が弘前に届いたのは明治に入ってからのことなので、
このすばらしい桜の景色は築城当時と同じではありません。苗木は京都から取り寄せたそうです。
緑の相談所の裏にある、日本でいちばん太いソメイヨシノ。
幹周537cm、樹高役10m!満開時はライトアップもされています。
見逃しがちな場所にありますが、その勇姿をぜひ見てほしいです。
三の丸跡は、〈ピクニック広場〉と呼ばれる広場になっています。
一面に桜が満開!!しかも、いろいろな種類の桜があって、中には珍しいものも。
いちばん左/黄色い桜・鬱金(うこん)は海外でも人気のサクラ。
左から3番目/弘前雪あかり。咲き始めはほんのりピンク、満開になると真っ白になる新品種。
弘前市民の方の寄付によって植栽されたそうです。
花びらのはかなげな感じが表現された、ステキなネーミングですね。
左/城内では唯一石でつくられた橋、東内門外橋
中、右/東内門。
日本最古のソメイヨシノ。明治15年に寄贈されたので、御年128歳!
ソメイヨシノは樹齢が60〜80年とされているのに対して、
弘前城公園には樹齢100年超のソメイヨシノが300本以上あるのだとか。
管理技術が日本一と称されるのも納得です。
なんだかパワーをもらえそう!探したら、ちょこっと咲いてましたよー。
与力番所。城内の見張り所として使用されるところ。
墨書き(柱や梁に書かれるメモ)から、江戸初期のものと推定。
館神跡あたりから天守をバックにした、弘前城の撮影ベストポジション。
が、しかし!完全にサクラは散り去ってます。がーん。
舞いおちた桜の花びらがまるで絨毯のように堀を埋め尽くして、それはそれは美しい光景なのだそうですよ。
(JRのポスターも、ここからのショットですね)
来年は満開のサクラをバックに撮りたいものです。
ものすごく気になるのが、石垣の積み方。
石垣の積み方を見ると、おおよその築城年代がわかるものですが、弘前城の石垣は新旧入り混じっているのです。
しかも、増築や改築とは思えない。
これはちょっと調べてみたのですが、明確な答えがいまだわかりません。
誰か教えてくださいー!
時間があったので、散歩がてら西の郭もぐるりと散策。
ついでのつもりが、意外と見どころ多し。
土塁もけっこう残っているんですね。初めて聞く名前の木もたくさんあって、気持ちよい森林浴。
左/西の郭未申櫓跡。1906年に煙草の不始末により消失、とさらっと記載。コラ、誰だー!
右/埋門跡。こちらもすっかり跡地に。
右/毎月5日はりんごを食べる日。
「食べますよ、<条例>ですから!」というお答えでした(笑)
「あ、今日は5日だねぇ、じゃありんごジュースでも飲む?」という感じで、
ナチュラルな生活習慣になっているそうです。
学校の給食にもりんごが出るそうですね。
私の生まれ育った地域には特産物や風習がないので、とてもうらやましいです。
左/街中のポストの上にはおっきなリンゴが乗っていて、かわいい!
観光協会の情報が充実しているので、観光しやすいのもいいですね。
小学校の校長先生が書かれた漫画だそうで、
地域のこと、弘前城のことがディープに掘り下げられていておもしろかったです。