城メグリスト

萩原さちこのプロフィール

城郭ライター、編集者。小学2年生で城に魅せられる。著書「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)「日本100名城めぐりの旅」(学研)「お城へ行こう!」(岩波書店)「図説・戦う城の科学」(サイエンス・アイ新書)ほか。共著、連載多数。メディア・イベント出演、講演、講座のほか、城フェス実行委員長もしています。
城メグ日記は、お城のあれこれから関係ないことまで語る、萩原さちこのblogです。

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米沢城と館山城へ

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米沢城へ取材に行ったので、併せて館山城へも行ってきました。
昨年3月に国指定史跡になり、
なかなかすごかったよー、と中井均先生からもうかがっていたのです。

山上はかつて礫(ほぼ川原石)で埋め尽くされていて、
それらをどけてみたら、ものすごい枡形虎口まで出てきたという発見のあった城です。
一面の川原石は裏込石で、
築石はどこか(米沢城と御堂か?)に運ばれ、中身が散乱しまくっているという状態でした。

2か所の枡形虎口はもちろんのこと
発掘調査では山麓の居館も発掘調査がされており、
伊達氏時代にはかなり広大な城館だったこと、その全容が解明されつつあります。
伊達政宗の生誕地がこれまで通説とされていた米沢城ではなく、
館山城であるとわかったのは、一般の歴史ファンにとっても衝撃的な発見ですね。

館山御館が伊達氏当主の城館で、
館山1丁目と2丁目の間に「一の坂」という立て看板があり、
看板の坂下までが館山平城の城域のよう。
山城(要害)がいわゆる館山城跡となっている丘陵の突端部分で、
館山東館と館山北館が根小屋、さらに避難所らしき館山南館があります。広大!

 

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館山城跡保存会さんのおもてなしマインドがすばらしい!

で、保存会で制作した冊子を購入したくお電話したところ、
事務局長のご自宅にお邪魔するといういきさつに。。
お話もできて、有意義な時間となりました。
小野里事務局長、ありがとうございました!
楽しみながら、しかし真剣に学び活動されているご様子に感服いたしました。

 

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ところで、教育委員会と保存会では見解に決定的な違いがあり。
双方の冊子に詳しく載っているのですが、なかなか興味深いものでした。

山城(要害)の石垣について、
教育委員会ではその精度から慶長期(=上杉氏による改変)であり、
その他の発掘調査の成果から伊達時代の城を上杉が改変したもの、という解釈ですが、
保存会では上杉氏の介入はなく、伊達氏のみの築造ではないか、というもの。

残存する石垣の加工や積み方を見る限りは慶長期ですし、
土塁上まで7石ほど高さがあるとしたら、これも慶長期でないと難しい。
上杉氏入封のタイミングは戦う城を構築するのは当然な時期で、
国境警備を目的としたこの城の改変はなんら不思議はない。

上杉氏が館山城の普請を行った記録はないため(ゆえに大発見となったわけですが)
慶長14年の「直江城州書簡」には6月の書状で
館山城を指すとは断定できないものの普請中断・破城の指示とも解釈できる記述があることから、
上杉氏の関与をにおわすものがまったくないわけではない。
やはり、教育委員会の見解が現実的かなあと個人的には思いました。

ただ、保存会事務局長曰く、近隣のいくつかの伊達の城にも似た石垣があるそうで。
これらの城を見ていないので現時点ではなんとも言えないけれど、
もしその関連性が立証できるのであれば、可能性がなきにしもあらずなわけで、
おもしろいなあと思いました。

しかしながら、教育委員会の資料をよく読んでみると、
東側の曲輪(1郭)西側の枡形虎口は石垣の下層に堀切が埋まっていることも判明し、
Ⅱ郭西側も巨大な堀切を改変して石垣が積まれ枡形虎口が構築されているのだとか。
このあたりからしても、やはり現状では上杉の改変とする解釈に説得力がありそうです。

ともあれ、いくつかの変遷があることは間違いなく、
謎がいっぱいで想像するのが楽しく、解明が待ち遠しい城であることには変わりません。
時代に応じて範囲や構造、使われ方、中心部も変わっていった城なのだと思います。
近隣の山々にも伊達氏時代の支城が確認されているとのことで、
そのあたりの連携も、訪れてみてから自分なりに考えてみたいなあと思いました。
もちろん、保存会事務局長から伺った支城たち、
北へ1.5kmほどの石切山(採石場)も明確に確認できるそうなので、もちろんここも。