鳥取城を散策
鳥取城フォーラム講演会終了後、2日目の見学会に先立ち、鳥取城へ登城してきました。
というのも、連日の雪により、
久松山鳥取城本丸(吉川経家本陣)→山道(十神砦)→本陣山太閤ヶ平(豊臣秀吉本陣)
という本来のコースから、
鳥取東照宮から太閤ヶ平を目指すルートに変更します、と事前に連絡があったから。
広大な中世城郭と、改築された近世城郭が共存する鳥取城。
時間も限られていたので、城下町の面影もなんとなく散策しつつ、近世城郭の部分を散策。
南御門、中御門、北御門と通り、二ノ丸、天球丸を見てから、標高久松山山上の丸(本丸)へ。
近世城郭とはいえ、山上の丸への登城道はけっこう本気。
夕方から軽い気持ちで登るにはそこそこハードでした。
3、4、5合目の中腹は、大規模な櫓台がある華やかな雰囲気とは一変して
中世城郭らしい、「ただの山じゃん!」状態が続きますが、
6、7合目くらいから、少しずつ様子が変わり、石が現れてきました。
中井先生に聞いたところ、このあたりから石を切り出して本丸へ運んでいたのだろう、とのこと。
なるほどー。
宮部継潤の時代だとしたら、1580年以降か。まだこんな山上に天守を置いたんだなあ。
中世の山城だっただけあって、山頂ビューは見事!
お天気がよかったらサイコーでしょう。鳥取砂丘もよーく見える。上から見ると以外とちっこい。
経家時代の物資補給路の方角なども見やりつつ、いろいろ想像したりして。
うーん、もっと時間をかけて見たかったな。
とはいえ、近世城郭のエリアにも見どころいろいろ。
書いておきたいですが、レビューは改めて。
ところで鳥取城といえば、吉川経家公の銅像。
<笑点>の前司会でおなじみ、5代目三遊亭圓楽師匠は吉川経家公の末裔なのですが、
なんとな〜く、とくに口元が顔が似ているではありませんか(笑)!
・・・と思ったら、圓楽師匠をモデルにしているそうです。あはは。
- お城のこと l
- 12/03/10/23:59
鳥取城フォーラム2012 講演会
不動産セミナーではありませんよ!
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鳥取城フォーラム2012
講演会 ~史跡鳥取城跡保存整備実施計画策定5周年記念講演会~
『現地検証・秀吉の鳥取城攻め』
講師:中井均先生(滋賀県立大学人間文化学部准教授)
会場:とりぎん文化会館
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へ行ってきました。
鳥取城といえば、三大城攻めのひとつともいわれる、秀吉の<渇え殺し>の城。
しかし、「この場所でこんな戦があったんだぞー」という薄っぺらい内容ではなく、
研究者である先生の豊富な知識と考察をもとに、
陣城とは何か、なぜ陣城を用いた包囲戦が多用されたのか、
かつての合戦や古文書の記述をもとに、そのあり方や構造、進化などを追いながら
鳥取城における太閤ヶ平の存在意義と中国攻めについても考察する、
とてもとても引き込まれる講演会でした。
四国・九州にはなぜ陣城がないのか。そんな謎も解けてほう、と納得。
以前、鳥取県県立公文書館 県史編さん室の方から
鳥取城の兵糧攻め以前の、いわゆる7つの支城攻略について聞いたことがあって、
実に巧妙な戦略に感動すらしたのですが。
なるほどなるほど、そのあたりの話とも私なりにつながる部分がありました。
秀吉という人は城攻めの天才なのだけれど、
自分の兵力温存に徹して極力ダメージを減らすという戦い方を編み出した人でもある。
しかし、もちろん主君・信長に認められて出世するためには、
ある程度華やかな武功を挙げなければならないわけで。
先生の話されるエピソードから、秀吉の新しい側面を見た気もしました。
城を通して見る秀吉像には、悪くいうとしたたかさ、よくいうと賢さがある。
アピール力と演出力(でもうわべだけでなく筋がキチンと通ったもの)も必要なのは、
現代にもつながる処世術の大事なファクターというところでしょうか。
歴史を知る=年表のように断片的な事実を追う、になりがちですが、
そこに人が関わる以上答えなどないし、想像することに醍醐味がある。
発想の転換や対処策など、自分に置き換えると学ぶことも多いです。
とくに城は、人が苦難の状況下で、どうにかしようと知恵と工夫を絞り出して具現化した跡地。
やっぱり、城はおもしろいなあ!
歴史のすべてには理由があって、そして必ず繋がっているのが魅力なんだな。
パズルのピースをはめていくように、ひとつひとつ解明されていくのがおもしろい。
たまに、なんとなくしかハマらないピースがあったり、
図柄がはっきりしないピースもあったり、差し替えピースが見つかったりもする。
約2時間、みっちり中井先生のお話を聞けて大満足。
講演会だけでも鳥取まで足を運んだ甲斐がありました。
そしてそう遠くないうちに【信長公記】が読めるよう勉強しようと思ったのでした。
しかし、200人の定員を優に超える大盛況で、最近の城郭に対する関心度の高さを再認識しました。
あ、今日も間違いなく最年少です(笑)
鳥取城フォーラムは講演会のみならず、翌日の現地見学会もあるという素晴らしい企画。
鳥取市教育委員会文化財課さんは、陣城の発掘と整備を精力的にされていて、
今回の企画も、先生が昨秋にすべての陣城を歩いたのがきっかけだそう。
鳥取市歴史博物館名義で出版されている冊子も、わかりやすく、読みごたえがありました。
見学会では講演会のことも含め先生とお話ができました。
このあたりのことは、見学会の日記に改めて書こうと思います。
- お城のこと l
- 12/03/10/23:58
若桜鬼ケ城&防巳尾城
鳥取城フォーラム2012に先立ち、
鳥取市内から車をぶっ飛ばして若桜鬼ケ城へ行ってきました。
鳥取城、鹿野城と並ぶ因幡三名城のひとつ。
播磨・但馬との国境という位置関係と当時の動向を肌で感じながら、
曲輪群や破城の名残を自分の目で見たかったのです。
・・・が!大雪で通行ストップー!!
まだまだ麓でこの状態、車を乗り捨てたところで到底ムリ、と判断して敗走しました。
資料館で縄張図や資料を見て、遠景を拝むだけの切ない思い出になりました。
いろいろ資料をくださった、親切な資料館の方に感謝。
距離感は掴めたし場所はバッチリなので、読み込んでいつかリトライです。
で、サクッと行ける防巳尾城へ立ち寄り。
ものすごーく遺構が残っているわけでも名所化しているわけでもなく
誰もいない自然公園&ちょこっと展望台ですが、
湖山池に突き出た半島であること、二俣に分断した縄張りは感じ取れるわけで、
なんというかこういう遺構が当たり前のようにあるというのは東京人からすると羨ましいです。
堀切もちょっと残っていました。
鳥取城方面がよく見える、なかなかいい立地の城なのではないでしょうか。
ところで・・・雨によって波打ったような地面になるのはなぜ?
ちなみに鳥取城の戦いで籠城戦の舞台となったこの城、
秀吉の千成瓢箪の馬印を奪った、という逸話があるそうです。
もちろん、その逸話を感じ取れる材料はここにはありませんが。
さらにちょこっと時間があったので、ベタに鳥取砂丘へも。
輝くキャメルの、幻想的なさざ波…なイメージでしたが、
前日&早朝の雨で全体的にしっとりしてました。
- お城のこと l
- 12/03/10/23:57
高天神城&諏訪原城
駿河・遠江・三河(現在の静岡県)というのは、
今川、武田、徳川が長きに渡って奪い合った地。
高天神城&諏訪原城も、武田VS.徳川が血で血を洗うような激しい争奪戦を繰り広げた、代表的な城です。
高天神城をめぐる攻防は、
奪い合いの末に二大勢力が大激突し、
玉砕した武田家が滅亡へのカウントダウンを切る、という
戦国ファンにはたまらない、手に汗握る歴史的ストーリーがあります。
そんなドラマチックな激戦地でもあることもありますが、
遺構としてもかなり見どころがある人気の山城です。
しかし、霊感はまったくない私ではありますが、
700人超が戦死した山城は、さすがに感じるものがありました。
遊歩道と、井戸曲輪から的場曲輪をつなぐ道が、通行禁止になっていました。
搦手門から本丸・御前曲輪・三の丸には行けず、追手門からしか登れません。
(逆に、追手門からは二ノ丸・馬場平には行けません)
近々行く方はご注意を。
見た感じ、遊歩道は整備の兆しはなさそうでした。なんとか復活していただきたいですね。
個人的には、諏訪原城の堀に心踊らされました。
大規模な空堀と水堀のオンパレードではありませんか!
まるで軽快なステップで走りまわるアルプスの少女ハイジのように、
山中を駆け回ってしまいましたよ。
私のお気に入りは9号堀。いや、6号堀、12号堀もいいな(笑)
壁立という絶壁もダイナミック過ぎ。
よくまあ、400年も崩れずに残っているもんです。
発掘調査は進行中でした。
丸馬出しなどの特徴から武田の城と言われてきましたが、
現在残っている遺構はかなり徳川の改修がされている、という専門家の見解があるそうです。
このあたりは今後が楽しみですね。
たくさん写真を撮りましたが、ここまで数を絞っても、華がありませんね。
見栄え重視で、一応景色の写真など盛り込んでみましたが(笑)
山城好きな人でなければ、「なんじゃ、このネイチャーな写真は?」という感じでしょうか。
お城のレビューは改めて。
- お城のこと l
- 12/02/26/23:59
久能山東照宮
中井均先生もオススメの静岡の名城、丸子城へ!
しかし、アクシデントにより断念。久能山東照宮へ行ってきました。
久能山東照宮は、徳川家康の墓所ですが、
その前は久能寺山城という城だったことはあまり知られていません。
築城したのは武田信玄。
1568年、要害の地と知った信玄が砦を築き城とし、武田家滅亡後に徳川家の所領になりました。
久能山東照宮を城という観点から見るのも、とてもおもしろい。
2つの時代が見事に混在していて、山城時代の名残を発見できたりします。
7世紀に久能寺として開かれ、城となり、墓所となる。
時代の変遷とともに姿を変えた場所であることがわかります。
久能寺山城時代の縄張図によると、
現在のロープウェイ乗降所が二ノ丸、社殿や神廟のある場所が本丸、ということになります。
「素晴らしい場所だから、俺が死んだらここに埋めてくれ」という家康の遺言により、
ここに埋葬され、その際に2代秀忠が造営したのが、現在の東照宮です。
(1年後にはこれまた遺言により日光東照宮造営。遺骸も移されている…とされる)
社殿、拝殿、その2つをつなぐ石の間を持つ、日本最初の権現造。
全国の東照宮のお手本ということと、400年の現存度合いが認められ、国宝に指定されています。
こちらが神廟。
うむ、なかなか格調高い石の加工ですよ(笑)!
ちゃんと桝形になっているあたり、特別感がありますね。とりまく空気も変わります。
しかしなぜ、家康が久能山に葬ることを遺言したのかは謎ですねぇ。
地図上で見ると、久能山東照宮、富士山頂、日光東照宮が直線で結ばれることから
「富士山を越したことで不死(富士)となり、
江戸城と北極星を結ぶ直線上にある日光で、江戸の守護神になる」という説もありますが、
地図がない時代に果たしてそんなことを考えることはできたのでしょうか。。。
平成19年に移設されたというス添石垣。
元和3年(1617)に築かれ、崩落防止のために天保4年(1833)に二重にされたという、廟所の石垣。
場所も異なり、切ないくらい現代風になっていますが、遺構を伝えてくれるのはありがたいことです。
本来の場所は、神廟の向かって左手、階段を上がってすぐのあたりだそうです。
当たり前ですが、葵の御紋だらけです。
熱狂的な徳川ファンにはたまりませんね。そんな人がいるのかは知りませんが。
寒桜&梅、美し。
水はけのよさに感動。城地としての優良度が証明されています。
2時間前まで雨が降っていたのに、この乾き具合はすごい。
- お城のこと l
- 12/02/25/23:59
ぐるっと九州城めぐり2012
ちょいお仕事も兼ねて、九州のお城めぐりへ。
いやいや、岡城はやはり素晴らしかった!!
地方の城下町を歩いていると、中高生の男子によく挨拶をされます。
東京出身の私にとっては、これが新鮮で衝撃的で、心地よかったりします。
突然知らない人に挨拶され、驚いてちゃんと返せない私は、
“冷たい都会人”なのだと気づかされたりもします。
坊主頭にジャージのソボクな風貌だけれど、
人の目を見て、ちゃんと腹から声を出して挨拶する中高生、
都会の年齢不詳な中高生なんかより、よっぽどカッコいいぞ!
10年後、東京に出てきてもびっくりせず、
そしてそのスピリットを東京の若者に伝えて欲しいなあ、と思います。
街割がそのまま残る宮崎県の飫肥城下町、とくに素晴らしい場所でした。
関係ないですが、人吉城の旅館の朝食でいただいたヨーグルト
「球磨の恵みヨーグルト」のおいしさが忘れられません。。
球磨焼酎以外に、こんなにおいしいモノがあったとは・・・!
お城レビューは改めて。。。
- お城のこと l
- 12/02/14/23:59
宇佐美江戸城石丁場遺跡見学会
「ふりかえり城メグ日記/2012年1~2月」その3。
NPO法人 宇佐美江戸城石丁場遺跡保存会さん主催の現地見学会に行ってきました。
石丁場、とは採石場のこと。
小田原や伊豆半島で切り出された割石が、舟で江戸に運ばれ、加工され、江戸城の石垣になります。
400年放置された採石場に、築城ミステリーのカケラがゴロゴロ転がり眠ってるなんて、
楽しいではありませんか!
2011年11月に小豆島で行われた「石の歴史シンポジウム」→ ★ で
すっかり石切丁場(石丁場)と石の歴史のに魅了されてしまった私、
もっと深く知りたい、勉強したいジャンルです。そして、書きたい!
いつか必ず書くから、今は詳細を書きません。
保存会のみなさんのスムースな運営とサポートが素晴らしく、
しかもとても親切に対応していただいて、感動すらしました。
街中の遺構の保護もきちんとされていましたし。
単なる文化財保護という目的だけでなく、愛と熱意、そして人とのつながりが大切ですね。
講師の伊東市教育委員会の杉山先生の解説がわかりやすく、忘れられません。
もっともっと、いろいろ質問したかったー。
今回ご案内いただいたのは山麓のほんの小さな区域だそうなので、
改めてガッチリと見学させていただきたいと思っています。
ご案内してくださるという森理事長のお言葉をそのまま信じて、近々行こうっと!
- お城のこと l
- 12/01/22/23:59
姫路城石垣見学&大天守瓦の記名
「ふりかえり城メグ日記/2012年1~2月」その2。
姫路市立城郭研究室主催の姫路城石垣セミナーに参加してきました。
城郭研究室の方には以前取材でお世話になりましたが、
当たり前ですが、城郭に関する知識と研究成果がすばらしい!
姫路城は世界遺産だけに研究も調査も資料も充実しているけれど、
それでも解明されないことばかりだし、知らないこともたくさん。突然新たな学説が生まれたりもする。
石垣というひとつのパーツからだけでもいろんなことが紐解けていく。城はミステリーです。
「なんだ、この写真?石が並んでるだけで意味わからん!」と思うことでしょう。これでも厳選ですよ(笑)
1枚1枚、石のミステリアスかつファンタジックなストーリーを語りたいところですが、
「ふりかえり城メグ日記」中なので割愛しますね。
私はこの写真を見てにやにやできるので、備忘録としては意味をなしているということで。
石質や積み方の違いや刻印に秘められた謎を解く楽しさはもちろん、
なぜここに石垣があるのか、戦略的な設計の部分はもちろん、地形や地質にまで見解が及ぶ。
つまり、今も昔もスゴいものには理由がある、というのがおもしろい、ということです。
ところで、大盛況だったこのセミナー、
定員の3倍もの応募があったそうです(市民セミナーなので、姫路市民だけで)。
城郭研究室の方の説明が分かりやすい上に聞きやすく、みなさんとても楽しそうなのが印象的でした。
もちろん人に語る以上はあるレベル以上の知識が必要だけれど、
“楽しんで知ってもらう”には、もっと違うものも大切だなあ、と痛感しました。
トーンとかリズムのようなものも大いに重要ですね。
さて、姫路に来たもうひとつの理由は、葺き直される姫路城大天守の瓦への記名。
「愛城(あいじょう)募金」という修繕費用寄付の特典です。
久しぶりに城のイラストを描いたら失敗しました(涙)
大天守は、いよいよ瓦の葺き替えがスタートしていました。
半世紀に一度の大修理工事については、
【お城の手帖(タツミムック)】の「姫路城のすべて」という特集で書かせていただいてます。
写真も撮り下しの贅沢な特集になってますので、よかったら見てみてくださいね→ ★
- お城のこと l
- 12/01/14/23:59
岐阜の城をぐるり
2ヶ月近く、城メグ日記の更新が滞ってしまいました。
一部ではここで生存確認がされているらしく、心配をおかけしてしまいました。
いたって元気です。すいません。
ざざっと、「ふりかえり城メグ日記/2012年1~2月」を書いておきます。
その1、岐阜の城めぐり。
ちょいと姫路に用事があったので、取材も兼ねて岐阜に寄りました。
かなり久しぶりの岐阜城をはじめ、岐阜市&大垣市周辺の城をうろうろと。
念願だった苗木城、すばらしかった!!こりゃ隠れた名城ですな!
遠山資料館も含め、かなりの時間を捧げてしまいました。
お決まりのセリフですが、詳しいレビューはいつか「城ある記」で(笑)
苗木城の看板、桜と城のイラストをあしらったステキなデザインですが、書いてある内容はシュール。
石垣崩落の危険性があるため、城では石垣から離れて通行することを促されるものですが、
この城は、絶壁のため石垣側のほうが安全。
たしかに、<崖から転落>よりも<石が落下>のほうが危険レベルとしては低いですね。
菩提山城では、登っているうちに雨が雪に変わり、そのうち霰に。
で、下山したら豪雨。歩きながら標高と気候のつながりを実感しました。
ぐちゃぐちゃどろどろでなんとか帰還。ちょっと無謀でした。下山する勇気も必要です。
- お城のこと l
- 12/01/13/23:59
大阪クリスマスの陣
クリスマスは取材&打ち合わせで大阪へ。
で、先日発掘調査が行われた、大坂城山里丸の現地説明会に行ってきました。
今回の発掘調査は、
大阪市教育委員会と財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所が2011年10月から実施。
多聞櫓を構成する礎石や雁木のほか、
寛政年間(1789~1800年)〜戊辰戦争(1868~1869)まで機能したであろう
排水のための大規模な集水枡が見つかり話題になりました。
かなりの高温で焼けて壁と一体化した瓦や、なぜか紛れていた豊臣時代の金箔瓦も展示。
併せて、じっくり見てきました。
大坂城で焼けた瓦が発掘、といわれると大坂夏&冬の陣を連想しがちですが、
こちら戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)のときのもの。
(そもそも現在の大坂城は徳川によって江戸時代につくられたものです)
山里丸は豊臣秀頼と淀の方が自刃した場所ですが、
江戸時代の山里丸はまったく違う姿をしており、
加番と呼ばれる警護役の大名やその家臣の屋敷だったそうです。
瓦、焼けて変形したあげくに壁と一体化してます。
金箔のものだけ豊臣時代のものですが、どうして紛れているのかはナゾとのこと。
A、B、C、D地区に分けた発掘調査の中でも、D地区の遺構は形状が良好。
南北3.9m、東西3.0mの巨大な石組みの集水枡が発掘されました。
壁面の石材は、なんと最大一辺150cm、高さ80mにも及ぶそう。
城内の排水システムが明らかになったのですから、こりゃスゴい発見ですよ!
しかも、補強の石垣を積んだり、一度泥や砂を沈殿させて水を排出するなど、
思わず感嘆してしまう仕組みが明らかに見て取れました。これぞ先人の知恵。
寛政年間の絵図に「沙留(すなどめ/すなだまり)」として描かれた四角い構造物が、この集水枡。
排水路を設置する穴から19世紀前半の陶磁器が出土していることから、
つまりは1800年には存在し、19世紀前半に改修され、戊辰戦争で廃絶したことが証明されました。
いやはや、さすが大坂城!
「エレベーター付きでニセモノの大阪城天守なんて見る価値なし!」というのは
まあ残念ながらある意味正解ですが、
やはり、歴史的にも城郭としても価値あるおもしろい城だと思います。
難しい記述はマニアックすぎるので割愛しますが、
単純に、掘ったらこれが出てくるってスゴいですよね?
よくぞまあ、長い年月埋まっていたものです。
逆に、なぜ今まで見つけられなかったのか不思議なくらい。
今立っている場所にも、数百年前の日本の欠片が眠っているもかもしれませんね。
それにしても、真冬にも関わらず熱心な城郭ファンがいらして、
発掘に携わった教育委員会の方を質問攻めにしておられました。
私も気になるあれこれを、横でふむふむと盗み聞きさせていただきましたー。
お天気よろし、でしたー。
- お城のこと l
- 11/12/24/23:59



























































































































