イキウメ「天の敵」
趣味は観劇…と言えるほど行けなくなってきたけれど。
イキウメ
だけは欠かさずに。
あー、行けてよかった!今回もすばらしかった!
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- 17/05/25/23:59
河後森城へ
河後森城は、いろいろな面で、おもしろく、楽しめ、心地よい。
構造や設計のおもしろさ。
立地や地形から戦略面を考察できる楽しさ、
それが実際に合戦や存続の歴史につながっている現実感。
調査・整備、その先の活用まで取り組みが及んでいます。
実際に自分で歩き、想像することの醍醐味を味わえるロマンにあふれた城だな、
うまく伝えられればものすごく楽しい城だな、と。
地域にとっても、ストーリー性とポテンシャルを秘めた城だなと思いました。
伝えたいなー。
河後森城のある松野町はとても風通しがよい町のようで、
人口は少ないのに出会う人が多く、なんだか気さくな方々で親しみやすい。
伊予(愛媛)と土佐(高知)の国境にあり、
やがて予土の通過点となったこの地域の立地と歴史に関わっているのかもと、
今日の取材を通じて思ったりもしました。
旅視点でも書きたくなったので、朝日新聞の連載に書こうと思います。
少し忘れかけられた、夏くらいに書きますね。
立地と地形から見る戦国の城、という本を先日脱稿したのだけれど、
河後森城のところ、書き直したいな。
こういう城を、周辺の城や情勢を踏まえつつ見ていくと、
戦国時代の城のあり方や領国防衛のしくみがよくわかるんじゃないでしょうか。
今日は松野町教育委員会のKさんがご案内くださいました。
とても熱意のある方で、いろいろお話がうかがえて、学びと刺激に。
やるべきこと、やりたいこと、私にもできることがたくさんあって、
今日にでもなせることがあるのに、目の前のことすら満足にこなせていない。
そのわりに、要らんところにエネルギーや時間を費やしている。。
邪念は四万十川に洗い流してきました。
明日から…という急変はできないけれど、
30分早起きするくらいの小さなやる気を出してみようと思いました。
トップの写真は、松野町特産の天然うなぎ。
東京ではありえん価格でいただきました。
養殖もおいしいですよ。
姫野々城へ
憧れの姫野々城をご案内いただきましたよ。
ひゃっほーう!!いい城だな!
久礼田城では土佐にもこんな横堀があるんだな、と感心し、
中村城の慶長期の石垣ではあれこれ談義を。
高知県埋蔵文化センター所長の松田さんに1日ご一緒いただき、
長曽我部の城、土佐の城について
あれこれ学び考えられて充実の1日でした。
写真は四万十川。
リバービューのお宿で、温泉入っておいしいもの食べて寝ました。
風がとっても心地よく、日が暮れるまで風に吹かれながら原稿を書きました。
(…ちゃんと仕事もしてますアピール)
高知城取材
暑いぜよ。酒が止まらないぜよ。カツオがうまいぜよ。
雲ひとつない快晴というやつです。
昨日の長曽我部の城ツアーから一変、本日は近世、山内の城を取材。
今年3月にオープンした高知城歴史博物館の3階展望ロビー、
追手門枡形と天守を俯瞰で収められる、新たな撮影スポットになりそう。
ただ、私の身長ではガラスの反射を避けられるところまで手が届きませぬでした…切ないぜよ。
売店で拙著「城めぐり手帖 現存12天守編」を置いてくださっている、
素晴らしい博物館でした。
現存12天守の比較など、城のキホンに関する展示もありイマドキな印象。
幕末の解説もコンパクトでなかなかわかりやすかったです。
観光施設に近く博物館としてはどうなのか、という意見もあるようですが、
観光地である高知城の追手門の目の前という立地で考えると、
遊び心とちょっと好奇心をくすぐる程度が私はいい気がしました。
完成度にこだわるのも大切ですが、つくる側の思いばかりが強くなりがち。
その向こうの世界へ続く、動線をしっかりつくることが大切なのではないでしょうか。
…と偉そうな意見も残して帰ってきました。
月曜日の昼から酔っぱらいで溢れかえっているひろめ市場、サイコーです◎
考古学から学ぶ史跡の見方・史跡ウォーク「長宗我部元親の居城」
高知県立埋蔵文化財センター主催、
考古学から学ぶ史跡の見方・史跡ウォーク「長宗我部元親の居城」。
岡豊城・大高坂城(高知城)・浦戸城をめぐる8時間のバスツアーでした。
長宗我部元親の居城である岡豊城、
豊臣政権下での築城となった大高坂城、
完全なる織豊系城郭として築かれた浦戸城。
時期は異なりながら、織田・豊臣政権にそれぞれ関わる個性的な3城。
私からは、築城と改変の背景と意義、
織豊系城郭の導入と移行といったあたりで思うことを、
全国の類似する城の事例も交えつつ、お話させていただきましたぜよ。
大高坂城から浦戸城への移行は、一般的には水害対策ができなかった、とされていますが、
実際には豊臣政権下での強制的な移動だったのではないかと思います。
昨年の米子城フォーラムのときに中井均先生とのトークショーでお話したように、
たとえば小早川隆景が新高山城から三原城へと移行した事例、
吉川広家が月山富田城から米子城へと移行した事例と同様に、
文禄・慶長の役に備えての軍港としての築城だったのではないかと。
水害対策ができなかったことが理由であれば、
その後に入った山内一豊が同じ場所に高知城を築くのもおかしな話ですし。
高知城に戻った理由は…いかんせん、浦戸城は城下町形成には不向きだったのではないでしょうか。
実際、大高坂城から浦戸城への移転時はなかなか家臣団が移住せず大変だったようです。
浦戸城で興味深いのは、天守台。
倭城を訪れたとき、海外出兵先の前線基地であるにもかかわらず
当然のように天守台があることに驚いたのを思い出しました。
案内するにあたり報告書を読んだり、
今回しっかりとその塁線を確認できたことで、私としても新発見が多くありました。
浦戸城は国民宿舎や竜馬記念館が建っていて
もはや城らしきものは何もないザンネンな城、と思われていますが、
ぜんぜんそんなことないですよ。
もう少し整備していただけるといいのになあ…。
実質的な秀吉の命による築城、ということであれば
織豊期の城を考える上でかなり重要になってくるのでしょうし、
長宗我部の城を考えていく上でも重要な城なわけで、
しかも調査結果も遺構もある。もったいないなあ、と思いました。
最近は地元の方々もがんばっていらっしゃるとのことで。
地元の方が作成したという散策MAPがとても秀逸でした。
(岡豊城のMAPといい…高知の方はエディトリアル能力が高い気がします)
とてもわかりやすく、しかしそれなりに詳しい人にも役立って、さじ加減もちょうどよくて。
城ファンとして、まず感謝。
こういう努力が少しずつ身を結び、地域の理解、文化財の保護につながっていくといいなと思います。
構造的には、改めて岡豊城はおもしろいなと思いました。
織田信長の影響が部分的に感じられ、改変が明らか。
近年の先駆的なレーザー測量などで全貌が明らかにもなっていますし、
じっくり見ていくとかなりおもしろい城だなあと改めて感激しました。
長宗我部氏の歴史を知るにも、この城の理解は避けて通れません。
岡豊城はもともと人気ですし、続日本100名城にもなりこれから来城者も増えるはず。
このあたりのおもしろさをたくさんの人に伝えていければと思います。
高知の城は畝状竪堀が多くあり、
関東は横堀文化なのだなあと改めて思いました。
岡豊城もさほど標高が高い訳ではなく、
関東平野の丘陵を利用した城と築城のセオリーは同じでもおかしくないわけですが、
まったく発想が違うのだなと感じました。
ただ、やはり毛利系の城とは畝状竪堀の使い方が違いますね。
岐阜の篠脇城なんかとも、違うなと思いました。
畝状竪堀は昨年の中世城郭研究会のセミナーでもテーマになっていましたが、
完全なる地域性なのか、はたまた共通性があるのかなかなか難しいです。。
畝状竪堀の導入、土佐の城については、
翌日いろいろ考えることになるわけですが…。
知見が広がり、私自身もとても勉強になりました。
なにより、みなさんとお話しながら城を歩けてとても楽しかったです。
ご参加のみなさま、高知県立埋蔵文化財センター所長の松田さん、
センターのみなさま、貴重な機会をありがとうございました。
氷艶 hyoen2017-破沙羅-
歌舞伎×フィギュアスケート。
「氷艶 hyoen2017-破沙羅-」を観劇。
歌舞伎の重厚感と、フィギュアの華やかな躍動感。
なかなかに美しく、エキサイティング&ファンタスティックなステージでした。
高橋大輔、荒川静香、織田信成、鈴木明子、浅田舞、村上佳菜子。
フィギュアスケートをはじめて生で観たのですが、
なんてしなやかで表現力にあふれた人たちなんだ…!
染五郎の連続宙吊りも迫力満点でした。
笑也さんは安定の妖艶。
荒川静香がきれいすぎました。
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- 17/05/20/23:59
春風亭昇太のおも城ばなしと落語会
三笠署長と敬礼!
「春風亭昇太のおも城ばなしと落語会」。
師匠と三原城&城トークさせていただきました。
ご来場のみなさま、ありがとうございました。
ドラマのせいで(小さな巨人の三笠署長役)
実は悪人なのでは…という疑念がむくむく。
「うかうかしてると座布団全部持っていかれるぜ!」
と身構えてやりましたが、
今日もたのしくやさしい師匠でした。
…そもそも1枚も座布団もらったことないけどね。
メインは落語会なので、昇太さん(&弟子の昇市さん)の落語を袖で聞けるといううれしすぎる1日。
私は落語は詳しくないのだけれど、ただひたすら、昇太さんすごいなあ、といつも思う。
超越しすぎていてこんな安っぽい感想でしか表現できないのがあれだけれども。
こんなふうに一緒に写真を撮ってくれる昇太さんとも、
ステージ上で隣に立ってお城トークをしている昇太さんとも、別人のよう。
ちょっと神がかって見えます。
いろいろなことが、この時間にすべて集約されているのだなあと思います。
生の落語、いいなあ。とにかく楽しいこの空間、すごく好き!
おも城ばなしには、広島大学博物館の佐藤大規先生もご登壇。
お会いできてとってもうれしかった!
その上、私のことを知っていてくださっていて感激しました。
とってもかっこいいクリアファイルまでいただきました。
- お仕事のこと l
- 17/05/14/23:59
美濃金山城第6次発掘調査 – 打ち合せ(中井研究室)
昨年の「山城へ行こう!」や「城フェス」でもお世話になっている、岐阜県可児市さま。
国史跡・美濃金山城では、今年9月に第6次発掘調査が行われるのですが、
私も、調査員として現場に入れていただけることになりました。
近年、発掘調査後の現地説明会に訪れる城ファンの数は激増していますが、
現地説明会で公式の成果を聞けることはあっても、
発掘調査の目的や方法、経緯や結論以外の可能性を知る機会はなく、
そもそも発掘調査とは何か、よくわからないのが実態ではないかと思います。
学術的な難しいことはさておき。
地域の方や一般の城ファンがもっと城を理解し、城を楽しむヒントが、発掘調査にもあるのではないかと。
せっかく勉強の機会をいただいたので、
傍らにその部分を取材させてもらい、私なりにアウトプットできればと思っています。
実質的な始動日となる今日はまず、整備委員長で顧問の滋賀県立大学教授・中井均先生のもとで、
調査についてのお打ち合わせでした。
調査部分と目的、調査手順、スケジュールなどの確認。
どんなリポートをしていこうか、どう発信していこうか。
私なりにどうまとめていこうか、模索中です。
開かれた発掘調査を、とのことで、見学は随時OKだそう。
私も9月はけっこう可児市に入り浸る予定です。ぜひお越しください。
憧れの中井研究室に行けて幸せでした。
- お仕事のこと,お城のこと,美濃金山城第6次発掘調査 l
- 17/05/12/23:59
米沢城と館山城へ
米沢城へ取材に行ったので、併せて館山城へも行ってきました。
昨年3月に国指定史跡になり、
なかなかすごかったよー、と中井均先生からもうかがっていたのです。
山上はかつて礫(ほぼ川原石)で埋め尽くされていて、
それらをどけてみたら、ものすごい枡形虎口まで出てきたという発見のあった城です。
一面の川原石は裏込石で、
築石はどこか(米沢城と御堂か?)に運ばれ、中身が散乱しまくっているという状態でした。
2か所の枡形虎口はもちろんのこと
発掘調査では山麓の居館も発掘調査がされており、
伊達氏時代にはかなり広大な城館だったこと、その全容が解明されつつあります。
伊達政宗の生誕地がこれまで通説とされていた米沢城ではなく、
館山城であるとわかったのは、一般の歴史ファンにとっても衝撃的な発見ですね。
館山御館が伊達氏当主の城館で、
館山1丁目と2丁目の間に「一の坂」という立て看板があり、
看板の坂下までが館山平城の城域のよう。
山城(要害)がいわゆる館山城跡となっている丘陵の突端部分で、
館山東館と館山北館が根小屋、さらに避難所らしき館山南館があります。広大!
館山城跡保存会さんのおもてなしマインドがすばらしい!
で、保存会で制作した冊子を購入したくお電話したところ、
事務局長のご自宅にお邪魔するといういきさつに。。
お話もできて、有意義な時間となりました。
小野里事務局長、ありがとうございました!
楽しみながら、しかし真剣に学び活動されているご様子に感服いたしました。
ところで、教育委員会と保存会では見解に決定的な違いがあり。
双方の冊子に詳しく載っているのですが、なかなか興味深いものでした。
山城(要害)の石垣について、
教育委員会ではその精度から慶長期(=上杉氏による改変)であり、
その他の発掘調査の成果から伊達時代の城を上杉が改変したもの、という解釈ですが、
保存会では上杉氏の介入はなく、伊達氏のみの築造ではないか、というもの。
残存する石垣の加工や積み方を見る限りは慶長期ですし、
土塁上まで7石ほど高さがあるとしたら、これも慶長期でないと難しい。
上杉氏入封のタイミングは戦う城を構築するのは当然な時期で、
国境警備を目的としたこの城の改変はなんら不思議はない。
上杉氏が館山城の普請を行った記録はないため(ゆえに大発見となったわけですが)
慶長14年の「直江城州書簡」には6月の書状で
館山城を指すとは断定できないものの普請中断・破城の指示とも解釈できる記述があることから、
上杉氏の関与をにおわすものがまったくないわけではない。
やはり、教育委員会の見解が現実的かなあと個人的には思いました。
ただ、保存会事務局長曰く、近隣のいくつかの伊達の城にも似た石垣があるそうで。
これらの城を見ていないので現時点ではなんとも言えないけれど、
もしその関連性が立証できるのであれば、可能性がなきにしもあらずなわけで、
おもしろいなあと思いました。
しかしながら、教育委員会の資料をよく読んでみると、
東側の曲輪(1郭)西側の枡形虎口は石垣の下層に堀切が埋まっていることも判明し、
Ⅱ郭西側も巨大な堀切を改変して石垣が積まれ枡形虎口が構築されているのだとか。
このあたりからしても、やはり現状では上杉の改変とする解釈に説得力がありそうです。
ともあれ、いくつかの変遷があることは間違いなく、
謎がいっぱいで想像するのが楽しく、解明が待ち遠しい城であることには変わりません。
時代に応じて範囲や構造、使われ方、中心部も変わっていった城なのだと思います。
近隣の山々にも伊達氏時代の支城が確認されているとのことで、
そのあたりの連携も、訪れてみてから自分なりに考えてみたいなあと思いました。
もちろん、保存会事務局長から伺った支城たち、
北へ1.5kmほどの石切山(採石場)も明確に確認できるそうなので、もちろんここも。
盛岡城築城420年記念 歴史講演会
盛岡で講演でした。
織豊系城郭のなかの盛岡城、をテーマに 盛岡城の魅力を語らせていただきました。
満員御礼!
たくさんのご来場ありがとうございました。
大きな会場で、スタッフのみなさんのご準備・ご配慮にも感謝です。
小和田先生の本を読んで育った私、
こんなふうに名前が並ぶのは恐れ多い…。
今日もよい経験をさせていただきました。
また明日からがんばれます。
小和田先生とは、東京駅から盛岡駅までの新幹線もご一緒で。
前日に恵贈いただいた小和田先生ご監修の本を読もうと思いましたが、
お隣におられるので緊張してあまり頭に入りませんでした…
(と言いつつ爆睡したけど)
夜は日本酒党の小和田先生と
盛岡の銘酒「あさ開」を飲みつつお話ができて幸せな1日でした。
- お仕事のこと l
- 17/05/07/23:59