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萩原さちこのプロフィール

城郭ライター、編集者。小学2年生で城に魅せられる。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演などもしています。

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南相馬に138人分の花火を

支援のお願いです。

南相馬で復興を頑張るTTV(チーム炊きボラ)の仲間が、8月27日(土)に花火の打ち上げを企画しています。
138人138発(死者、行方不明者含む人数分)。犠牲になられた方の弔いに、辛い状況下の方が、笑顔になるために。
実現するためには、資金が必要です。
一口5,000円、ご協力いただける方は、私にメールかコメントをください。お願いします。

南相馬で頑張るみりょんちゃんのblog →
 

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顔晴れ、岩手!〜TTV大槌町〜

6月18〜19日の土日、TTV(チーム炊きボラ)で、岩手県大槌町へ行ってきました。
大型バスで片道9時間。今まででいちばんの長旅になりました。1泊2日+車中1泊行程です。

今回は、私にとって今までとはちょっと違うボランティアでした。
なぜなら、大槌町吉里吉里というところに、友人の親戚一家がいるから。
同じ年の英志くんは学生時代に東京で会い、今は地元に帰り、大槌町役場の職員として働いています。
吉里吉里には、一昨年遊びに行ったばかり。
知り尽くした場所、というわけではないけれど、
やはり知っている場所の変貌を目の当たりにするのは、辛いものがありました。
もう1週間も経つのに、まだ頭の中がぐるぐるしていてまとまりがないですが、つらつらと書きます。

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震災直後、大槌町の報道が少なかったのは、
花巻から車で2時間半と、距離的なものに加え、
被害があまりに大きすぎて、報道カメラが入っていけなかったからだと聞きました。
街の心臓となる大槌町役場も壊滅、町長をはじめ1/4の職員の方が亡くなり、
三日三晩の火災で、この街の中心部は燃え尽きてしまいました。

 


「おかげさまで、瓦礫はだいぶ片付いたよ。焼け野原みたいだけど」
と、英志くんからメールをもらっていたけれど、
本当に、写真や映像で見た、東京大空襲後の焼け野原みたいだった。
かつての報道で見た状態に比べたら、劇的に片付いていたけれど。。

 

戦後の写真と違うのは、ものすごい腐敗臭が充満していること。
数え切れないほどのカラスが飛び交って、この地を占拠している。
ここにはおそらくまだ、腐敗臭の原因が残っているのだと思う。
都会のカラスは、人間か生ゴミの入ったゴミ袋に狙いを定めているけれど、
ここのカラスは狙いを定めていない気がしました。
襲ってくる気配もなくて、なんだか余裕さえあるような。

 

こんなところでも、水はキレイなんだな。

 



この場所は、ご遺体を踏まずには歩けないほどだったのだと、あとで英志くんが教えてくれました。

 

一昨年、グルメな友人が「日本一おいしいお寿司屋さんだよ」と連れてきてくれた、大槌町の<鮨辰>さん。
大槌町の中心地は栄えていて、ちっちゃな商店がいっぱいあったなあ。
すべての建物がコンパクトでなんかかわいくて、今度来たらちょっと散策してみたいな、と思った場所でした。
それで、「英志くんの務めている町役場はここだよ」と教えてもらったっけ。
もう町役場がどっちの方向だったかもわからない。
鮨辰は、どこに行っちゃったんでしょう。

 




生活の破片が、余りもので適当につくったごった煮の具みたいになっていて、
家族のアルバムや子供の描いた絵など、とても写真に写せないようなものも、埋まり転がっていました。
まだまだ大切なものがたくさんあるけれど、それに手をつけることすら、今はまだ後まわしなのでしょう。
赤い旗は、亡くなった方のいる印。

 

「火葬が間に合わず、土葬することになりそう」と、3月の英志くんからのメールにありました。
まだまだ行方不明の方がたくさんいるけれど、身元の確認も少しずつ進んでいるそう。
「身元の確認といっても、片腕とか片足とかね。ポケットの携帯電話から身元がわかった人もいるんだ」。
…大切な人を、片腕で確認するなんて。

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吉里吉里地区へ移動。ガソリンスタンドは力強く営業中。
仮設スーパーマイヤ、品数は豊富。だけど、レジにいちばん近い棚を埋め尽くしているのは、お線香でした。

 

吉里吉里から車で2~3分の波板海岸で、奇跡的に営業している民宿に泊まれることに。
民宿に着いておばさんに電話してみたら、自宅にいるとのこと。
ようやく戻れるようになり、修理が完成間近なのよ、と。まだ明るかったので、
東京から持ってきたアルバムと手紙とお土産と、炊き出しで余ったおかずを持てるだけ持って、
歩いて吉里吉里のおうちへ行くことにしました。

 

走って民宿を飛び出したのはいいけれど、すぐさま目の前の景色に圧倒されてしょんぼり。
ひとりでとぼとぼ歩いていたら、悲しくなってきて足が止まって涙が出てしまいました。
そういえば、被災地をたったひとりで歩くのは初めて。ここで5分くらい、ぼんやり。

 


一昨年、友人とこの海岸線を早朝ランニングして、
「今まで見た中で、いちばん穏やかできれいな海だよ!」興奮気味に話したのを思い出しました。
「波板観光ホテルはこのあたりの絶景ポイントでもあるんだよ」と案内してくれて、
ランニングウェアのままホテルに侵入して、中庭から海岸の絶景を一緒に見たんだった。
あんなに賑わっていた波板観光ホテルは廃墟と化していて、もうこれ以上は近づけない。
ホテルの社長さんも、亡くなってしまったそう。いつまで、このまま放置されるんだろう。

歩道がなくなってしまって、「ああ、もうおばさんには会えないのかな」と
絶望的な気持ちになってしまいました。
今思うと意味不明な発想だけど、なぜかそのときはそう思ったのです。
湿度200%くらいありそうな、湿っけみたいな重い空気がまとわりついて、息苦しかった。
地元の高校生らしき男の子に挨拶されて、気を取り直す。

 

おばさんの家は、海の目の前。
「吉里吉里小学校の青い看板の横を入ったところだったな」と思い出しました。
目印の青い看板が見えたとき、家がなくて背筋が凍った。
でもさっきおばさんが「おうちで待ってるね」と言ったし、通話履歴も残ってる。
気を取り直して近づいたら、ちゃんとお家があって、玄関先におばさんがいて、うれしかった。

 




津波の進路、家屋の耐久性、逃げる方向。小さなことの積み重ねが、命運を分けたようです。
お隣の家は柱ひとつ残っていないし、いまだに行方不明だそうです。

あの日、おじさんとおばさんは一緒にいて、居間でご近所の方と、お茶をしていたそう。
地震が発生後、窓の外の海が渦潮のようにぐるぐる回り出したため、
外へ出て、海岸沿いで津波を見ていたら、
みるみる遠くの家屋を破壊して迫ってきたため、大慌てで逃げたそうです。
その間、約20分。

右の道から逃げたおじさん達は無事避難し、
左の道から逃げた近所の方は、波に飲まれてしまったそうです。
緊急避難場所である吉里吉里小学校へ向かう途中に、津波に飲み込まれた方もたくさんいたのだとか。

英志くん曰く、小さい津波はよくあることで、津波そのものは、ここではさほど事件ではない。
たしかに、以前は頑丈そうな堤防があったし、こんなに海がむき出しじゃなかった。
だから、津波=とにかく逃げろ!みたいな方程式は地元民にはなくて、
おじさん宅のように海のそばにいて、実際に海を見てただ事ではないと気づけた人が、間一髪逃げられたそうです。
こればTVでも再三放送されていることですが、
想定外の規模に気づけなかった距離にいた方が、亡くなっています。

素敵だったエントランスのガラスも割れ落ち、壁の上部には浸水の跡(赤い矢印のところ)。
パッと見はあまり変わっていないような室内だったけれど、
ひとつひとつ説明してもらってじっくり見たら、柱は傷だらけだし、継ぎ接ぎだらけ。
3ヶ月かけて必死で修繕した跡が至るところに残っていました。

「ゼロになったら新しいものにしようとするんだろうけど、元に戻せるものは戻したくなるんだ」と
英志くんが言っていました。
どうしても、同じものがほしくなるのだそうだ。なかったことにしたい、という思いがはたらくらしい。

「仏壇が流されちゃったの」とおばさんが指したスペースは、ぽっかり空いてしまっていた。
私の実家には24歳になるまで仏壇というものがなく、なんというか仏壇があんまり生活に密接していないので
その存在がいまいちピンとこないのだけれど、
仏壇を失うというのは、心の家族を失うということなんですね。
戸籍謄本に載っている数が増減するとかそういうことではなくて、
モノにも命があるし、この世のすべてに想いがあるんだなあ、と改めて思いました。
パッと見は変わらないように見える部屋だけど、おばさんにとってはすっからかんなのもしれません。

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「なーんにもなくなって、びっくりしたでしょ?」というのがおばさんの第一声だったけど、
「うん、ホントに何もないね」とも言えないし、「そんなことないよ」とも言えなかった。
こんなときは、なんて言ったらいいのでしょうね?
言葉を扱うことを生業としていながら、肝心なときにまったく何の役に立たないのが悔しい。

もっと気の効いたことが言えた気がするし、
私なんぞでも、聞いてあげられることがあったのかもしれない。
辛いこととか、話したかったのかなあ、
それとももっとおかしな話をして、思いっきり笑いたかったのかなあ、後になって悶々。
適当な相づちを打つだけで終わってしまった。

だけど、情けない話だけれど、私自身が、震災の話をできなかった。
そのときは、なにも考えないでヘラヘラしていないとダメだった。
こういう腫れものに触れない接し方もよくないのだと、これまでのボランティアで感じたばかりなのに。
ああ、私は何をしに行ったのか・・・。

「1階が流されちゃって靴がなくて、長靴をもらったんだけど、爪先が痛くてね。
靴のサイズが合わないからだと思ってたら、ガラスがずっと刺さってたの~」と、
見せてくれたおばさんの足の親指は、ざっくり割れていて、今も皮がべろべろだった。
ガラスが刺さったまま放置してもおかしいと思わないなんて、
それだけ、そんな痛みなど気にしている場合ではなかったということなんだろう。
「痛かったでしょう?」「まだ絆創膏貼っておいた方がいいんじゃない?」とか
私はまた、しょうもないことしか言えなかった。

「船は流されちゃったよ」と、漁師であるおじさんはちょっと淋しそうだった。
つつましやかに積み上げてきたものを失うことがどれほどのことか、
私のような若造にはわかるわけないんだろうな、と思って何も言えなかった。
おじさんは、また海に出たいのかな。海をどう思っているのかな。それでもやっぱり、好きなのかな。
自然と共存している人と私とは、どんな感覚の違いがあるんだろう。
いろいろ聞きたかったけど、やっぱり聞けなかった。

栄志くんはいろんなことを終始笑顔で話してくれたけど、
たくさんの上司や同僚を目の前で亡くして、
生まれ育った故郷が破滅されていくのを見て、どんな気持ちだったんだろう。
目の前にやることがたくさんありすぎて、悲しんでいる暇もないのかな、とか
私がこんなにいろいろ考えたりするのは余裕があるからであって、
英志くんには物思いにふけったり不安になったりするゆとりもないのかな、とか
話しながらぼんやり考えていたんだけど、
実際のところどんな風に思っているのかなんて、とてもじゃないけど聞けなかった。

ただ、取り戻せるものは全力で取り戻してやろう、目の前に壁があるなら超えてやろう、みたいな
確固たる気迫みたいなものがあって、もうとにかく、すごいな、と思った。
それはもうスポ根みたいに奮い立たせたうさんくさいものじゃなくて、
長い年月備わって、外からは見えないけれど揺るぎなく芯を支えているもの。
お城でいうなら、心柱だ。…といっても誰もわからんか。
心柱は、各層が外れるのを防ぐ通し柱のこと。
ときに柔軟に力を分散させて、ときに衝撃を集めて支える。
だから、たとえ多少の衝撃が襲おうとも、天守が崩れることはない。城の背骨みたいなもの。

町長はじめ役場職員の多くが亡くなり、行政機能失った役場はてんてこまい。
ネットがつながって、パソコンもやってきたけど、データが何もない。
支払い先がわからない、額がわからない、そもそも契約書がない。そんな状態だそう。
そして今、大槌町の年間の予算の3倍超が、瓦礫撤去や遺体埋葬だけに使われているそうです。

土日も休みなく早朝から働き続けて、翌日も5時起き。だけど、
「前は3時に起きて漁に出てから、それに比べれば全然~」と笑っていた。
そうだ、この人はおじさんの漁を手伝ってから役場に出勤するタフガイだった。
私が知っている中でぶっちぎりNO.1の前向き男。ミスターポジティブだ。
岩手のおいしいワインを民宿まで届けてくれたりして…岩手県民はおもてなし精神NO.1というのは本当だな。

壁とガラス窓のない家には、冷たい3月の風が吹き込んで、
翌日には容赦なく雪が降り、本当に本当に寒かったそう。
真っ暗闇の中、あちらこちらで故人を悼むろうそくが夜中灯って、
一晩中、すすり泣く声が絶えなかったのだそうです。
「キャンドルだと思えばいいと思ってね。そしたらキレイに見えっから~」と
おばさんは明るく笑い飛ばして話してくれたけれど、もう、そんな夜は耐えられそうにありません。

NHKの朝ドラ<おひさま>で
「戦時中、我慢はできるかできないかではなくて、するかしないかだったのよ」というセリフがあったけど、
それはこういうことなのかなあ、とふと思い出したり。。

自らも被災しながら、1週間避難所で炊き出しをしていたというおばさん。
「元気だけが取り柄です」というおばさん。
ホント、底抜けに明るくて、強いなあ。。。

行き場のない怒りや非難が、役場に向けられることもあるらしい。
災害後の対応からはじまって、さらには遡って事前の危機管理などまで。
本人は一切言わなかったけれど、おばさんが少し話してくれました。
九死に一生を得ても、決して手放しで喜べない現実があるのですよね。
自責の念に駆られている方も、たくさんいらっしゃるのでしょう。
震災のストレスもこれからがピーク。いろんな意味で、これからが正念場。

英志くんと、自立支援の話も少ししました。
荒治療が効果的な人もいれば、そうでない人もいるように、
サポートの形はさまざまで、問題も十人十色。
だけど何か指標がないと物事は進まないし、軸がないと議論も起きない。
こういう問題も、何年も先まで被災地では抱えていかなければならないんだな。
理想を掲げる部外者とは少しトーンが違う、現実的で淡々とした意見もあったり。。

おばさんはちょっと切なくなるようなことも漏らしていたけれど、
言葉の裏側に絶望ではなく希望を感じたし、
こんな苦境の中で、希望を持てるパワーを持てるなんて、なんて頼もしいのだろうと思いました。
話さなかっただけかもしれず、これはもう、私の勝手な解釈でしかないのだけれど。。

 

東京に帰ってからは気が抜けてしまったのか、きれいだった頃の海の写真ばかり眺めてしまいました。
「私、会わないほうがよかったのかな」とちょっと落ち込んだりもして。。
だけど、おばさんと英志くんからメールがきて、「ああ、行ってよかった」と心から思いました。
永久保存のうれしいメール。内容はヒミツです。

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吉里吉里の風景です。瓦礫の山は、吉里吉里の分だけ。

 

大槌町のローソン入口にあったボランティア情報ノート。私も書いてきました。

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炊きボラの活動についてもご報告。

今回の車は大型バス!ひまわり観光!ひまわり観光だけに、入口にはひまわりが飾られ、お出迎え。

 




こちら釜石市街。見覚えのある風景を抜けて、大槌町へ。

 



1日目は金沢小学校で炊き出ししました。240名様分くらい。
美しい大槌川を抜けたところにある、廃校。

 



支援物資のお届けなども。

6月18日は、震災からちょうど100日。14:46にはサイレンが鳴り、私たちも金沢小学校で黙祷を捧げました。
その時私はそこにいたわけではないのに、時間がぐるぐる巻き戻って、空気が冷たくなって怖かった。
この場所には、まだそういう気配が現在進行形で残っているんですね。

 


2日目は、かみよ稲穂館で炊き出し。こちらも240名様分くらい。

 

パーテーションもない倉庫のような場所で、
42世帯、87名がまるで保育園のお泊り会のように、狭いスペースで雑魚寝していました。
食堂もテーブルもないから、食事を置くのは床。
見ず知らずの家族同士の共同生活には、プライバシーもない。
仮設住宅に当選したのは4家族だけ、という現実。
入りたくても入れない。入ったら、自立という厳しい道のりが待っている。

調理室の冷蔵庫に貼ってあった食事メニューをパラパラと見たら、
昨日も、明日も、昼食はカップラーメンでした。
朝食は、おにぎりと味噌汁程度。
これでも、お湯を沸かせるようになっただけ、ましなのでしょうね。
こんな生活が、もう3ヶ月以上も続いている。
ここにいる人に「頑張れ」なんて言えないし、「一緒に頑張りましょう」なんて絶対に言えない。
もう、頑張らせたくない。
震災がひとまず落ち着いた、と思っている人がいたら、とんでもないです。

 



こちら、炊きボラの「ボラ」チーム。上原さん撮影。かっこいいぞ。
炎天下、さぞかし大変だったことでしょう。道のりは長いけれど、少しずつよくしていきましょうね。

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新聞に、どこかの現地ボランティアセンターの方のインタビューが載っていて、
「私たち被災者は、疎外された気持ちになる。見捨てられた気持ちになる。
だから直接関わらなくても、ボランティアの人の姿が目に入るように
少人数だとしても、できるだけいろんなところに配するようにしている」とありました。
私たちボランティアは「してあげる」のではなく、「させていただいている」という心持ちで伺おうと
TTVリーダーのkazさんはじめメンバーで話していますが、
もしそこに意味を残せるのなら、それはとてもうれしいことです。

大槌町の話ではないけれど、被災地で「やることがないのが辛い」という声を耳にします。
まだまだどん底の方もたくさんいらっしゃいますが、
一段落して普通に生活したくても、仕事がない、趣味ができない、希望もない。そういう足踏み状態の方もいます。
日課の散歩すらできなくて、体調もすぐれずストレスも溜まる。自立できず不安が増す。
衣類や食事を<もらう>のではなく、バザー形式で<自分で選び、自分でお金を出して買う>ことが喜ばれる。
炊き出しのごはんを<もらう>のではなく、道具と食材があるなら<自分でつくる>ことがしたい。
メークしたり、だらだらしたり、ときには時間に迫られたり。嫌なこともあるけど自分なりにリフレッシュしたり。
普通の生活とはこういうことなんだと、気づかされます。
復興のスタートラインにも立てない方のための<今日を生きる>サポートも必要ですが、
<歩き続ける>ための多角的なサポートも、これからは必要になってくると思います。

 

復興させていくのも、被災者。自立するのも、被災者。
私たちは、被災者になることはできず、被災者の気持ちをわかることはできません。
ただ、同じ方向を向くことはできます。

できることは人それぞれ。できることをできる範囲で続けていくことが、ベストな支援だと思います。
現地に行くことだけが支援ではありません。
私たちの活動も、食材、物資、支援金などのたくさんの後方支援に支えられています。

現地へ行くことに興味がある方は、ぜひ一緒に行きましょう。
なにができるかを明確にしていく必要はありません。そんなことをしても、無力さに気づかされるだけ。
必要なのは、「なんとかしたい」という気持ちだけです。
できることは、これから探せばいいのですから。

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岩手は、「がんばろう」ではなく、「ありがとう」のメッセージが圧倒的に多かった。
これだけの苦境の中でも感謝の気持ちを表せる、これぞ岩手人の心意気。

ちなみにタイトルの「顔晴れ、岩手!」は、
バスの中から見た、大きな看板に書かれていた言葉。小学校か、中学校のフェンスだったと思います。
「顔晴れ」には「ガンバレ」のルビ。なんだかいい言葉ですね。

 

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東北に花火を咲かせよう!

8月11日(木)に行われる、花火大会。
岩手県(山田町、大船渡市三陸町、大槌町、釜石市、陸前高田市)、福島県(いわき市)など、
東日本大震災の被災地である東北沿岸部で、
追悼と復興の意味を込めて、一斉に打ち上げられます。
この花火の募金が、7月31日まで、一口1,000円から受付中です。

本来、花火大会は“追悼”や“復興”の意味をもつもの。
花火大会の発祥は、現在の夏の風物詩でもある、隅田川の花火大会で、
江戸時代に8代将軍徳川吉宗が、
1732年の享保の大飢饉とコレラの流行による死者の慰霊と鎮魂を目的として
翌年の夏に催した「水神祭」がきっかけといわれています。
(ちなみにお花見を江戸城外に解禁したのも吉宗。暴れん坊将軍は庶民の味方です)

辛きも美しきもわかち合う精神が、江戸を、日本を支えてきたのですね。
そのあとの日本はいろいろ失敗もしたけど、
ちゃんと復興して、今という未来につながっているのですから。

この吉宗スピリットに基づき、隅田川の花火大会も例年通り開催されるようですよ。

花火大会なんてただの娯楽で、今年がダメなら来年リベンジできるものだけれど、
どうってことない娯楽だからこそ、今必要だし、「今できること」だと思うのです。
「なんとなく、今年はやめておけばいいじゃないか」という空気もあるけれど、
なんとなく程度しか支障が考えられないなら、やればいい。
花火大会の経済効果がどうとか、そういうことは抜きにして。

これから復興させていくのは被災者だし、自立するのも被災者。
ずっと下だけを向いてきた人が、上を見る日になるかもしれません。
葬儀さえまともにあげられない方の弔いになると、
たとえ一瞬でも慰められる人がいるかもしれません。
花火なんか見たくない人もいるかもしれないけれど、
見てよかったと思う人もいるかもしれない。
もうそんなの可能性でしかないけど、可能性はゼロじゃない。

明るくきれいな空を見上げることで、
被災された方の心が、少しでも明るくなりますように。

少しずつ、みんなで協力して、もっともっとたくさん空に咲かせませんか?

LIGHT UP NIPPON

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祝・平泉世界遺産登録

平泉が世界遺産に登録されました!
昨年の夏に行ったので、記憶もあたらしく感慨深いものがあります。
中尊寺、毛越寺、厳美渓…どこも素晴らしかったなあ。

個人的には達谷窟毘沙門堂がよかったんですが、ここは世界遺産リストから外れちゃったみたいですね。
坂上田村麻呂が戦勝記念に創建した堂です。

 

 

岩への食い込みっぷりにも相当心惹かれますが、なんといってもすごいのは、岩面大仏!
高さ16.5mもある巨大な岩壁に、源義家が馬の上から弓で彫りつけたそうな…そりゃムリだろう。
苔の部分が、ベビースタイのようになっていてかわいい。

 

  

でも、もっとよかったのは翌々日訪れた盛岡城です。
世界遺産ではなく国の指定文化財ですが、スバラシイ!
土塁が主流の東北の城には珍しい、花崗岩で組まれた白い石垣の城。
さまざまな時代の特色を示す石垣が点在して残り、石垣ファンにはたまりません。

盛岡城の石垣には、地震による倒壊などの被害は今のところ報告がないようです。ほっ。
 

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ヨーロッパに渡った日本の紙

書や画を書き写すだけでなく、生活の中で幅広く使われてきた手漉き和紙について。
日本独自の紙文化の歴史について、学んできました。

千代紙については私は詳しくないのでわからない部分が多かったですが、
<折形>のお話はとっても興味深かった!
折形とは、贈答や室礼などの際に用いられた、紙を折って物を包む日本の礼儀作法の1つ。
隣近所の付き合いがまだ密だった時代は、お赤飯にごま塩包みを添えてお裾分けしたり。

ものを裸で渡すのか、包んでお渡しするのか。
「どうせ捨てるし、どっちでもいいじゃん」みたいな風潮がスタンダードになりつつありますが、
贈る心を形にする、というのは素敵なことですね。
それに、折形は、包むことによって贈り主のけがれや外からの悪意の進入をとめることができる、という
古くからの約束事に基づいているのだとか。
品格があるとか礼儀だとかではなく、思いやりの精神なのですね。

といいつつ、私もきちんとできているわけではないけれど、
理想として、気持ちだけは心に留めておきたいものです。
ちなみに、私はラッピングがけっこう好きで(母が得意だった)、
学生時代ラッピング検定を受けようとしたことがあります。

西洋にはない、熨斗という日本独特の慣習。文化って、やっぱり素敵だ。

本日の講師、和紙造形作家の大柳久栄さんがとても品のある方で素敵だったのですが、
折形のお師匠さんからの10年間の教えの中で
もっとも多くの時間を費やしたのは「平常心」なのだそうだ。
知識や技法の量を追求するのではなく、そこへ至るまでの道のりを重んじることこそ
伝統文化の粋であり、美の真髄なんだなあ、と思いました。

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HRH炊き出し(牡鹿、雄勝〜女川)

登米市〜南三陸〜塩竈→ に続き、HRHに参加させてもらい、宮城へ。
牡鹿半島・鮎川浜、雄勝地区と2エリアに分かれての炊き出し&物資お届けです。

 

  
  

バタバタと仕込み&積み荷して、金曜深夜に出発。早朝、目が覚めたら地獄みたいな道を走っていました。

 

  

神秘的な景色が広がる、雄勝地区。波の音が心地よい。

 

  

雨のため、炊き出し場所が急遽変更に。体育館のちょっと屋根になっているところにHRHの陣を張ります。
今回は、調理室ではなく、屋外でのサバイバル炊き出し。
家庭用のカセットコンロやフライパンも持ち寄り、フル稼働で挑みます。

りえ子さんチームは、ここから車で1時間半の牡鹿半島へ。
半島というだけあって、さらなる壊滅状態。なかなか支援の手も届きません。
海沿いの、かろうじて残るガソリンスタンドの屋根の下で、炊き出しを敢行したそうです。
3人で、約80名分(&予定外の+30名分)をまかなった牡鹿チーム。
後で写真を見せてもらったら、ホントに海辺!
あと少し満ちたら水没するというサバイバルっぷりだったようですが、
そんな状況で日々暮らし、これからも行きてゆく方々がいることを、私たちは忘れてはなりませんね。

 

   
   
   

食材や物資などたくさんのご協力が、今回もHRHに寄せられました。
私はただそれをお届けしているだけで、詳細も把握していない状態ですが、ただただ感謝です。

今回の炊き出しには、中目黒【青屋】の青山有紀さんがHRHの一員として参加してくださいました。
作業中はてんてこまいで、噛みしめるゆとりなしだったけれど、有紀さんと料理できるなんて、貴重な経験。
限られた食材でスピーディーにハイレベルな料理を提供する。
プロのお仕事、さすがでした(超〜〜〜おいしかったー!!)
ひじき煮、大根とにんじんの甘酢。写真はないけれど、特製わらびもちも、有紀さんから。

 

できあがり。

 

失敗したごはんに残ったおかずを添えた、ワンカップまかない。
野田さん作の絶品なす味噌&おぼろ汁も美味。涙が出るほどおいしい、贅沢なごほうびランチです。
これをみんなで食べる時間が、好きだったりします。

 

  

炊き出しが終わったら、嘘のように晴れてきました。
仮設住宅のある高台からの景色。ここは本当にキレイなところだったのだと、VCの方が教えてくれました。
雄大な山と海。広がる青空と、キラキラの太陽。そして、えぐり取られた住宅地。
いろんな意味で自然のパワーを感じさせられるこの景色を、たぶんずっと忘れないと思います。

仮設住宅で、お手洗いをお借りしました。こちらに入ったのはほんの10日ほど前だとか。
お子さんの学校や仕事のことなど課題も多いけれど、それでも少し落ち着いたとおっしゃっていました。
仮設住宅の上には、自衛隊のテント。自衛隊の方には本当に頭が下がります。

 

  

おだやかな海。あまりに美しすぎて、背後の民家とのギャップにびっくりします。
水深2メートルまで見えるという透明度。ウニがいますね。以前は水深10メートル(!)も見えたのだそうです。

 

めいっぱい楽しんで、めいっぱい動く。温かく熱くピースフルな、HRHに集うメンバー。
水道も火もない状況下でも、短時間で数百人分もの炊き出しができるのは、そんなメンバーのおかげです。
場所が変更になったり、時折雨が強く降ったり、予定数+60食に増えたり、
ハプニングもたくさんあったけど、みんなフレキシブル!
ほぼ初対面の人だけど「私これやります!」「じゃあ私はこっち!」と、見事な連携プレー。
できないことはフォローし合い、とにかくミッション達成に向け一直線です。

本日のロケバスの走行距離は950km!!私が乗せてもらったMさん号は、買い出し含め1,032km!!!
素敵な仲間との出会いに、心から感謝です。
1人じゃないもできないけれど、集まれば可能性がぐんと広がる。つながりの力って、本当にすごいです。

 

  
  
  
  

子供の頃、「電信柱に登っちゃいけないのはなんでだろう?」「中に何が入っているのかな?」と
不思議に思っていましたが、こうなっているんですね。
まさか現物を見ることになるなんて。。一生見られなくてもよかったな。

テーブルの上にどんぶりが置かれた居間、まるでコントみたいな家の断面。
「ドリフの舞台でこういうのあったなあ。居間とトイレって、本当にこういうレイアウトなんだなあ」とか
ぼんやり思ったりして。

食器や、どうでもいい置物や、衣類や小物。
南三陸でも思ったけれど、こういう“生活の破片”を見るのが、いちばん辛い。

こんな光景に少し慣れてきてしまっていることが、私は怖い。

 

  
  
  
  

地震から、今日でちょうど3ヶ月。女川で下車して、14:46に黙祷しました。
道路の瓦礫はきれいに撤去されていたけれど、手つかずの場所はそのまんま。
おだやかな海と、荒廃した建物のコントラストが心に痛い。
変わらないものがあれば、変えられないものもあるのだと見せつけられている気がして。。
時間が経っても修復できないものもあるかもしれないけれど、
それでも少しずつ、前に前に向かっていると信じたいものです。

3ヶ月経って、なんとなく落ち着いた気がしてしまうけれど、そんなことはありません。
まだまだ、おにぎりひとつ、水や米さえ手に入らない生活をしている方もたくさんいらっしゃいます。
さまざまな問題も、山積みです。できることを、していきましょう。

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最近、ボランティアのことを聞かれるたび話していること。
今はとにかく「たくさんの人に一度被災地を訪れてほしい」と思っています。

自分の目で見ることは、本当に大切。そこからどうするかは、その人次第。
「できることがあるから行く」のではなく「できることを探しに行く」のではないでしょうか。
何より、現地に行かなければわからない真実がたくさんあります。

被災地に行き続けることだけが支援ではありません。
自分にできることを、無理なく長く続けることが、本当の支援なのだと思います。
HRHも、大量の食材、物資、支援金があるからこそ、現地で活動できています。
たくさんの言葉や気持ち。形がないものだって、パワーになります。
布団1枚、酒1本も、支援物資。まだまだまだ、何もかもが足りないし、大変なのはこれからです。

自分がどれだけ役に立つ人間なのか、とかそんなことはどうでもよくて、
ただ「なんとかしなきゃ」という気持ちがあるかどうかだと思います。

HRHのような日帰り炊き出しもありますし、もちろん後方支援は大歓迎です。
行ってみたい、という方は引き続き気軽にお声がけください。
料理ができなくても、できることはいくらでもありますよ。ぜひ一緒に行きましょう。

次はTTV(チーム炊きボラ)で岩手県大槌町へ行きます。
17日(金)23時に東京を出発して、19日(日)深夜に戻ります。
まだ少し人数にゆとりがあるようですので、興味がある方はぜひ。

 

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たなか鮎子さんのグループ展

絵本作家・銅版画家のたなか鮎子さん→ からいただいたDMに魅せられ、gllery DAZZLEのグループ展へ。

「おはなしに棲む動物たち」
ふくだじゅんこ、たなか鮎子、篠原晴美 三人展

 鮎子さんは、上品なユーモアにあふれた、憧れの人です。
ものごしソフトでありながら、おもしろテンポが小気味よくて、知れば知るほど、意外がザクザク出てきます。
西洋を連想させておいて(私の勝手なイメージ)、旦那さまはメキシコ人というのも、楽しい裏切りです。

篠原晴美さんの木版画もステキでした。
基本的な刷り合わせや貼り合わせの技法や、色の出し方、偶然生まれた色や重ねの誕生秘話など。
職人技のお話を直接伺えて、わくわくしました。
本当は、もっと質問攻めにしたかった(笑)!
クリエイティブとは冒険なんだな、と再確認。こういうことがあると、創作意欲がムクムク湧き上がります。

鮎子さん、素敵な時間をありがとうございました。
銅版画のこと、もっと教えてほしいです。
あと、フツーに飲みに行きましょう♪

城メグリスト
 

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ピザ会in前田屋

5月28日のHRHでご一緒した<ピザ屋になりたい映像プロデューサー>の前田屋・前田さん宅へ。
炊き出し用に持ち運びできるピザ窯を購入し、試作するというのでお手伝いに…というのは口実で、
「自宅にピザ窯がある!しかも葉山!」ってことで、ついついお邪魔しちゃったわけなのです。

「葉山でピザ屋をやってます」と、初対面の人にウソをついていた前田さん。
料理人とは思えない炊き出しの手つきで、ウソがバレていた前田さん。
脅威的ないじられっぷりで圧倒的な存在感を発揮し、
数々の名言&生ける伝説を秒刻みで生みだす、類い稀なる引きつけ力を持つお方ですが、
とんでもない言動をしながらもたくさんの人に囲まれていて、愛されキャラなんですね。
なんだかんだで人の話をよく聞いていて、回答が的確で、話しやすいです。

 

   

踏んづけている赤いタオルの存在意義が気になる…キッチンの前田さん。
お手製のピザを焼き上げ、ドヤ顔の前田さん。
結局りえ子先生がつくったサバの酒蒸しで、なぜかドヤ顔の前田さん。
りえ子先生にチェックされ、腰が引けている前田さん。右手のiphone、置いたらいいと思いますよ。

 

   
   

<ピザ屋になりたい映像プロデューサー>のなりたい度合いはいかばかりか疑心悪鬼でしたが、
自宅の庭に、それはそれは立派なピザ窯をお持ちで!本物のピザ職人みたいです。
生地に膨大な時間とこだわりを注いでいるのに、トマトソースはまさかの市販品(笑)!
「隣に住んでたらイヤだよね」と誰かがポツリ。

 

なんだかんだで人気者の前田さん。ドヤ顔最高潮。

須藤元気さんの音楽プロジェクトWORLD ORDERのPVは前田屋の制作とのことで、元気さんもいらしてました。
元気さんも、陸前高田にボランティアに行ったばかりだそうで。
現地の情報こうしてボランティア情報の交換ができるのも、つながりあってのことですね。

 

以前イタリアへ行ったとき、「ピザ用の小麦粉を買ってきてくれ〜」と前田さんからおねだりされ、
やさしい元気さんは、わざわざ工場まで足を運んだのに、
帰国後「近所で売っていた」と前田さんから衝撃の告白をされたそうです…前田さん、無敵。。

 

   
   

なんだかんだで6種類?どれもかなりおいしかったぞ、前田ピザ。
自家製ルッコラは、虫食いまくってますが(笑)
そして、お料理好きな方が集まると、持ち寄りの食材やちょっとしたおつまみが激ウマです。
乾杯までの準備が早い!さすが、数百人の炊き出しをこなすHRH(笑)!

 

   

これが今日のメインイベント(だったはず)の、持ち運びできるピザ窯。
火のあたりどころが難しく、熱のまわり具合がイマイチようで、試行錯誤する前田シェフ。
歪んだ結果、ハートのピザができました〜!かわいい。
窯で焼いたのとは異なる焼き上がりだけど、生地がぱりっとして、これはこれでおいしかったな。
あとは、効率!被災地でもアツアツのピザをふるまえるといいですね。

 

なんだかんだであっという間になくなる、絶品前田ピザ。ホントにおいしい〜!!

昼間っからたくさん飲んで、たくさん食べて、たくさん笑いました。
ごちそうさまでした!

 

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HRH炊き出し(登米〜南三陸〜塩竈)-2

登米での炊き出し→  を終えて。
車ですぐだというので、南三陸町へ行くことに。

 

   

北上川の美しい風景に感動したりしているうちに、みるみる車窓の景色がおかしくなってきた。

 

  
  
  

南三陸町。
ここに街があったとは思えないし、どんな街だったかを想像することは不可能。
どっちが海で、どの方向から津波が押し寄せたのかもわからない。
雨の中、相当な数のクレーン車がフル稼働していたから、これでもかなり片付いたのだと思います。

この場所で、たくさんの方が亡くなっている。
私はただ、涙を流しながら手を合わせることしかできませんでした。
「状況を知ってほしい」と、被災地の方はおっしゃる。
聞いたこと、見たこと、感じたこと…伝えることも大切なのだろうけれど、
これ以上は撮れないし、うまく言葉になりません。ごめんなさい。

 

   

立てかけられた、手書きの連絡先。奥が段差になっているから、ここは玄関だったんだな。
がっくり肩を落としているようにも見える、ぽつんとたたずむ消火器。
ぐちゃぐちゃで逆さまになった車や、突き刺さった船、裸になった建物も見るに堪えないものがあるけれど、
かばんやランドセル、お茶碗やコップ、おたまやハンカチ、花瓶や表札のほうが、心に痛かった。
生活の欠片がもう意味をなさなくなって、まるで昨日の残りもののゼリー寄せみたいに、土砂に埋もれている。
それぞれに生命があるのだとしたら、その時計はもう、止まっちゃったんだな。

 

  

TVニュースでも報道されていた、遠藤未希さんがいた災害対策庁舎。ただただ、ご冥福をお祈り申し上げます。

 
  

震災後につくられたであろう、ガソリンスタンド。
「アスファルトが新しいから、きっと震災後作ったんだろうね」とりえ子さん。
これが、この場所の、現在のせいいっぱいの復旧。

 

  

バスが走り出してもなお、瓦礫の風景は続く。少し高台のほうは、無事なよう。

 

 

この状況下でも立ち上がろうとできる心意気に、逆に励まされる。私もやろう、できることを。

 

  
  
   

少なくとも、建物の最上階まで浸水はしていたよう。

 

  
  

旅先で街あるきをしながら「街の郵便局って、平和な風景の象徴だなあ」と、いつも思う。
郵便局は、人の思いや夢や希望が詰まったものが集まる基地で、
ポストは、手紙や小包という分身を預ける、どこでもドアみたいなもの。
だから郵便局はいつも平和な空気が漂っていて、大切なものをあつかう適度な緊張感で包まれていて、
人があったかくてすがすがしくて、私は好きなのです。
ヘルメット姿の配達のおじさんは、仮面ライダー並みにバイクが似合っていて、
真っ赤なバイクで幸せを運ぶ、正義の味方。
…のはずなのに。どうやら自然界には、人間界の常識は通じないのですね。

 

  

おそらくここは、美しい海辺の街だったのだろうな、という断片を見ながら、南三陸町を後にしました。

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南三陸町を後にして、HRHにみなさまがお寄せくださった、支援物資をお届けに、塩釜市へ移動。

【ふんばろう東日本支援プロジェクト】事務局HP→ より

工業地帯に点在する40世帯で、広さの割には民家が少ない。
無事な家は1軒もない。ほとんど全壊か大規模半壊。工業地帯の為に人がいないとみなされ、給水車は来なかった。
支援物資は4月一杯で打ち切り。ライフラインは町会長の近辺は復旧だが、道路の反対側は電気もない。
買い物は徒歩圏内に行ける場所なく、近くにあったマックスバリューの開店は7月の予定。
コンビニ等も全てなくなった。車も殆どの人が流されている。自販機もない。
移動販売が先週から来て下さるが、種類も少なくも高齢者が多いので、買い物が大変。
家電はほとんどの方がないのですが、今は食料と日用品が欲しいとのこと。
塩竈市は道を挟んで急に、明かりがなくなり瓦礫の山が現れます。

本当に一部の世帯だけが被害を受けていて、被害の有無が明らか。
だからこの街の中でも温度差があるのだそうです。
石巻や気仙沼に続く海沿いの大通りは、震災後ものすごいスピードで復旧したけれど、
“たいした被害ではない”この地域は、救助も援助も素通りなのだそうです。

 

   
   

台湾からの支援物資も。
「よかったら」と春美さんが差し出した絵本やおもちゃ、とても喜んでいらっしゃいました。
日用品集めに奔走する生活の中で、子供のための絵本は夢のような贅沢品なのだと思います。

普通のものがない。買えないし、店も復旧しない。
2ヶ月以上経ってなお、とりあえず水やお米を、という状態。
こういう被災地が、まだまだたくさんあるのではないかと思います。
少しでも、役に立ちたい。できることを、できる限り。

 

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HRH炊き出し(登米〜南三陸〜塩竈)-1

5/14~15の福島の「炊きボラ」でご一緒した、寺本りえ子さんと福田春美さん。
おふたりと、パリ在住のコーディネーター・大塚博美さんの3人が
支援や応援活動をパワーアップするために結成したチーム、「みんなの愛届け隊!/HRH」が
宮城へ炊き出し&物資お届けに行くというので、連れて行ってもらいました。
(3人の頭文字を取ってHRHだそうです) 

炊き出し準備、物資の手配や取りまとめなど、すばらしい行動力と愛には、脱帽。 
そして、現地に行けなくても、本当にたくさんの方が、
被災地の力になろうと、できることを探し、実現すべく日々奔走しています。
支援物資や支援金、食材や料理、絵本や衣類の提供など…
そんな姿を見ていると、つべこべ言わずできることをしよう!と突き動かされます。
とにかく、現地でなにかお手伝いできれば、と思い、車に乗っけてもらった次第です。
「オレは金がないから体で払う!」というエガちゃんの名言を胸に。

ご提供や、HRHの活動の詳細は、りえ子さん、春美さんのblogにて。。
寺本りえ子さんのブログ→
福田春美さんのブログ→

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今日訪れたのは、宮城県登米(とめ)市。
甚大な被害を受けた南三陸町の被災者の方々が避難生活をしている、公民館での炊き出しです。

避難所の方のお話によると、
登米市自体は被害がそれほどないので、どうしても支援が後回しになるのだとか。
食料や物資も、自衛隊やボランティアによる作業もなかなか来ないし、
石巻や気仙沼のように有名人が炊き出しに来ることもない。
でも、被害が少ないといっても、ここはもともと人が住むところではないし、少なからず被災はしている。
公民館の入口は陥没し、壁も崩れかけ、仮設のお風呂も、昨日届けれたかのように置いてありました。

 

   
   

たくさんのご提供もあり、こんなに豪華なメニュー!

 

   

ベイクルーズの野田晋作さんは、料理もプロ並み!野田さんの料理教室があったら、絶対行くなぁ。
ローストポーク(自家製のタレがうまうま!)、なす味噌(超〜美味!)は野田さん作。
私はというと、相変わらず野菜を切ったり、盛りつけたり、火加減見たり、盛りつけたり。
ミネストローネ、サバのSTUB酒蒸し(STUBほしい!)など、ちょこちょことお手伝い。
なんと!スタバのバリスタさんが駆けつけて、おいしいコーヒーを振る舞ってくださいました。

 

   
   

盛りつけしていたら、ハートのアメリカンチェリーを発見♪

 

できあがり。

「わあ、ご馳走だねえ!」と目を輝かせるおばあさん、「ありがとうございます!」と礼儀正しい中高生。
遠慮しながらも、大盛りのお肉にはにかむ男の子。わざわざ調理室までお礼を言いに来てくれる、お母さん。
おいしそうに食べてくれる姿を見ると、「来てよかったなあ」と素直に思う。
うれしい反面、辛くもあり、悔しくもあり、複雑な気持ちにもなりますが。

 

   

「そのエプロン、欲しいなぁ」とお母さんがぽつり。
聞けば、エプロンが支給されるはずもなく、そこらにあったエプロンで凌いできたそうだ。言われてみれば…。
私も福島炊きボラのときに見て「かわいいなー。欲しいなー。」と密かに思っていたこのエプロンは、
春美さんデザインのcocofukuのエプロン。
cocofukuは「ここに福がある」って意味なんですって。
デザインや素材がいいだけでなく、使い勝手も配慮されたあったかハッピーエプロン。春美さんみたい。
cocofukuのエプロンをかき集めて、春美さんがプレゼント。
「ケイタイも入るわね〜」と、お母さん達も大喜びでした。

今回用意したのは、170名分の食事。
被災直後は300人以上もいて、5〜6人の被災したお母さん達が朝5時から夜20時まで
ずーーーとこの調理室で働き詰めで、毎日全員分の食事を3食分つくっていたそうです。
「だいぶラクになったのよー。お年寄りは重労働すぎてさせられないしね」とお母さん。
2ヶ月以上もそんな生活を続け、それでも笑顔でいられる強さには頭が下がります。

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避難所のそばのお店で、この後の支援物資にお野菜を購入。安い!

トップphのいちごは、宮城のボランティアの方からの差し入れ。あまくっておいしい!!
お手伝いに来ているはずなのに、こうして温かい心をいただき、逆にやさしさに包まれます。
バスの中で、みんなでいただきました。
 

この後は、南三陸町〜塩竈へ→ ★ 

 

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